の給水量は、デルタ上流部のプミポン、シリキットダムからの水供給に依存しているが、北部における種々の水需要の増加により中部への水供給が減少してきた。このデルタ上流部との水利用の競合は、デルタ内部の競合を一層激化させた。
チャオ・プラヤ河からの水供給は、特に乾期において、もはやバンコク首都圏地域の水需要の増大を賄うことができず、地域の水不足の解消のため、メ・クロン河、タ・チン河流域とチャオ・プラヤ河流域の運河をリンクさせることにより、不足分を補おうという計画が政府により1985年に立案された。しかし、この計画は多くの農民を含むメ・クロン、タ・チン両河川流域住民の反対に直面し、政府はあらためて、BMR地域およびその周辺地域の水不足対策を再考することを余儀なくされた。政府の対策の中でも、中部地域の農業部門への配慮が最も重視され、農民に5万の浅井戸掘削を奨励するために5億バーツの補助金が計上された。
以上のように、チャオ・プラヤ・デルタにおける稲作用水資源開発の余地は極めて少なく、限られた水資源をめぐる非農業部門との競争が激化する中で、デルタにおける水田稲作の発展には、厳しい制約条件が課せられているといえよう。
ベトナムの場合は、非農業部門との水利用の競合という問題は、タイほど深刻でない。しかし、デルタ地帯における灌漑インフラの増加には、以下で述べるように多くの制約がある。ここでは、ベトナム最大の水田稲作地帯であり輸出用米の生産地帯であるメコン・デルタの灌漑を中心に説明を加えたい。注9)
紅河デルタについては、1994年時点で水田の灌漑率90%,排水整備率68%とすでに灌漑・排水施設がかなりの部分をカバーしており灌漑未開発な農地がほとんど残されていない、というのが一般的な見方である。灌漑インフラについての課題は、老朽化した施設のリハビリと維持・管理である。
メコン・デルタの水田開発は、フランス統治下での米の商業的輸出のために大規模な運河の掘削が行われたことに、端を発する。しかし、当時は天水に依存した伝統的稲作が行われており、作期も年一作であった。灌漑が行われるようになったのは、1970-71年頃にアメリカ製のボート用エンジンを改良した揚水ポンプが普及してからで、高収量品種を軸とした新技術の普及と相俟って、稲の二期作が急速に普及したという。また、ベトナム戦争終結後の政府による水路網の整備も灌漑条件を改