評議会が形成され、各レヴェルの評議会間には厳格な階層構造が存在していた。そして、いずれのレヴェルの地方自治体も共産党の指導に服することになった。評議会は、「地方的権威の機関ではなく権威の地方的機関であった」(Enyedi &Kovacs,p.80)だったのである。
共産党統治下、行政的近代化が行われ、小規模な町村は統合評議会という形によって実質的に統合された。また町村の名実共の統合が行われるケースもあった。1950年に2,978あった町村評議会の内で複数の町村を監督していた評議会がわずか200であったのに対して、1988年にその数は1,545の内の679に増加したのである(Enyedi&Kovacs,p.81)。
当初、地方自治は、県-郡-市町村という三層構造を有していた。しかし、県と市町村の中間にあった郡は次第に権限を縮小されていく。まず、1971年には郡の代表機能が停止され、郡に残った権限は法的側面に限られることになった。そして、1984年に郡は完全に廃止され、郡の権限は県に移されたのである(当時の評議会制度については、図表2を参照)。
他方で、県より広域な領域的組織を形成する試みも行われた。1960年代後半までに国土は6管区に分けられた。1971年にこうした管区は、長期的経済計画の単位となったが、各地域に個別の意思決定機関が設けられることはなかった。管区が自治の単位としての実効的な領域的組織となることはなかったのである。
このように共産党政権の後半に、県は地方自治における領域的組織の十全な基本単位として復活していた。
さて、1980年代に入ると、中央集権的であった評議会制度は、次第に解体の道を歩んでいく。既に1970年代後半から、中央政府は、地方の発展に対する一元的管理を放棄し始め、行政的に統合された町村の分裂も始まった。さらに、1985年には、統合によって自前の評議会を失っていた町村に、自治的な代議体が設けられた。1989年における評議会の内訳は以下の通りである:県評議会19、ブダペシュト(首都)評議会1、県市評議会8、市評議会140、市統合評議会17、大規模町村評議会118、大規模町村統合評議会162、町村評議会571、町村統合評議会507(Hajdu,p.213)。
そして、1985年には、政府の財政的支援およびハンガリー科学アカデミーの指導によって、西欧に類似した地方自治制度に関する大規模な研究プロジェクトが発足した。1989年の政治的激動を経て、1990年の総選挙によって成立した新政府の前には、それまでの評議会制度に代わる新たな地方自治制度の骨子が既に存在していたのである。