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定である。アウスグライヒ締結後、ハプスブルク帝国は、オーストリア=ハンガリー二重帝国に改編された。オーストリア=ハンガリーにおいては、外交、軍事、それらに関する財政などこそオーストリアとハンガリーに共通であったが、それ以外の国家業務については、両者の調整を必要とする関税、通貨などを例外として、オーストリアとハンガリーは完全に別個の国家となった。

オ-ストリア=ハンガリー時代のハンガリーにおいても、近世以来の貴族による地方自治が継続した。すなわち、1870年の地方自治法によって、ハンガリーの各県に広範な自治が付与されたのである。各県には県議会が存在し、県議会議員の半数は選挙によって選出され、残りの半数、高額納税者が県議会議員となった。また、選挙への有権者資格は、納税額・学歴などによって厳しく制限され、19世紀末においても人口に占める有権者の割合は3%であった。

1886年には行政改革が行われ、地方自治に関しては中央集権化が試みられた。県政の長には国王によって任命され、中央政府の利益を代弁する県令が就いたが、実質的な県政は、県行政組織の長である副県令が行った。副県令は、県令が行った決定に対する不服を内務相に申し立てることができたが、24時間以内という期限がある上に県令を通じて行わなくてはならなかった(Csizmadia,ed.,p.432)。当時の中央・地方関係の概観は、図表1を参照されたい。

さて、第一次世界大戦後に国土を縮小されながらも独立を維持したハンガリーにおいては、大戦直後の混乱を経験した後、1929年に地方選挙法が改正された。中央政府は、これによって中央集権化、県政府の権限縮小を試みたのである。これに対して、県は、県内の町村に対する権限の拡大によって対抗した。県は、第二次世界大戦後の共産党政権時代を迎えるまで、地方自治の主役であり続けたのである。なお、県に服さない存在として、県と同格のいくつかの都市があった。これは、近世以来の都市自治の伝統を継承するものであった。

 

(2)共産党政権時代の地方制度

 

第二次世界大戦直後の混乱時代には、強力な中央政府が存在せず、そのために、1945年後半には数多くの地方自治体が乱立した。戦後初の1945年11月の総選挙において第一党となった小地主党は、連邦制を導入しようとしたが、1947年8月の第二回総選挙で敗北し、実現しなかった。代わって第一党となった共産党は、第二回総選挙(1949年5月)において圧勝し、ハンガリーは共産党政権時代を迎えることになった。

ハンガリーは1949年の憲法によって人民共和国となった。共産党政権時代の地方自治の核は、評議会制度であった。国内の各地域レヴェルにおいて、それぞれ

 

 

 

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