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ィクの敗北に同意しない地区ソビエト指導部は、90年12月末にソビエトを奇襲的に招集し、前述の地区検事派の準備が整わないうちにメティク議長をソビエト執行委員会議長に選出してしまったのである。

メティクは、執行委員会議長を兼任してから1年余しか地区の第一人者としての地位に留まることができなかった。大統領代表に任命されなかったからである。1992年4月の地区レベルでの大統領代表制の導入に際して、州の大統領代表に任命されたばかりのダヴィム力が地区まで来て、地区有力者の意見を聞いた。その際、「ルフ」は、メティクよりも、ドロホブィチ市ソビエト副議長で「ルフ」の党員でもあったボフダン・ペトルシャクを推した。そこでダヴィム力は例外的に(67)ペトルシャクを地区大統領代表として任命したのである。メティクはソビエト議長としてのみ残ったが、実権を失うと同時に屈辱的な扱いを受けたという印象は否めなかった。この雪辱のチャンスが1994年6月のソビエト議長選挙であった。この選挙には、ペトルシャクのほか、メティク、かつてのソビエト執行委員会議長ラガニャークも出馬したが、ペトルシャクが勝った。メティクの政治的な節操のなさが、結局、彼に災いしたようである。彼は元々、「ウクライナ民族主義者コングレス(KUN)」、つまり「ルフ」よりももっと民族主義的な政党の活動家だったのに、地域のコルホーズ指導層に取り入るため、中道民族主義政党である「ウクライナ農民民主党」の地区支部を開設するなどしたのである(68)。

ラデヒフ地区ソビエトにとっての1990年3月選挙の結果は、ドロホブィチよりもラジカルであった。民族民主派の完全な支配下に入ったこのソビエトは、コルホーズ議長であったボフダン・ステッツを議長に選出する一方、執行委員会議長には、それまでラデヒフ市ソビエト執行委員会議長を5年間務めてきたオレクシー・オスタプチュクを据えた。オスタプチュクは、財政高専とリヴィウ大学経済学部(当時はゴリゴリの共産主義者だったクラフチュクの講義も聴いたそうである)を卒業し、市ソビエト執行委員会議長職に就くまでの間、地区ソビエト執行委員会財務部エコノミスト、国家保険監督局長、地区ソビエト執行委員会社会サービス部長などのキャリアを積んできた職業的な行政官である。事情はよくわからないが、ソビエト体制の中で順調に出世しながら、他方では愛国者(=ウクライナ民族主義者)としての名声を傷つけることもなかったのだろう。新生ソビエトは彼に行政を任せ、しかも1990年から91年にかけて、ウクライナ共和国全体の方針に反してソビエト議長と執行委員会議長の兼任方針を追求することもなかったのである。

ステッツは、1年足らずでソビエト議長を辞し、1991年、メロン・ヤンツールが後を継いだ。8月クーデター未遂事件に際しては、オスタプチュクは執行委員会を直ちに招集し、地区に非常事態は存在せずと明確な指示を下した。

 

 

 

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