このような急進的な人事政策は、共産党支配の遺産が、皮肉にも、党の敵対者であった民族民主派において発現したものと考えることができる。ソ連にとっての獅子身中の虫であったハリチナにおいては、共産党州委員会第一書記に次ぐ州政のナンバー2は、(ロシアや東部ウクライナにおいてとは異なって)産業担当の第二書記ではなく、イデオロギー担当の第三書記であった。民族、言語、信教に関わるイデオロギー的な諸問題を経済社会的な諸問題よりも優先する特殊ハリチナ的な姿勢を、民族民主派は共産党から無意識のうちに相続したのである。また、同じく政治的な不信感から、ソ連共産党は、ハリチナでは市・地区レベルの最高指導者(第一書記、第二書記)を地元の人間からは抜擢せず、それらをロシアや東部ウクライナから派遣していた(59)。これは、ハリチナ人が政治的な主体性を全く奪われていたことを意味するが、逆に言えば、彼らは他人に統治してもらい、統治することの苦労を知らなかったわけである。まさにそれゆえに、ハリチナの民族民主派は、権力を掌握して後、業績主義を知るものならば許容しないような急進的な人事政策を採用しえたのであろう(60)。
ただし、州の最高指導のレベルでは、業績原理もある程度は勘案された。州ソビエト議長のチョルノヴィルは象徴的な役割を果たしたにすぎず、実際の行政は、技術官僚上がりのステパン・ダヴィムカが担った。1990年9月以降、チョルノヴィルが州ソビエト執行委員会議長をも兼任したが、ダヴィム力が執行委員会第一副議長として行政の実権を握り続けた。1992年3月、大統領代表職が導入され、再び立法権と執行権の長が分離されると、当然の如くダヴィム力はリヴィウ州大統領代表に任命された。
1992年にチョルノヴィルがキエフに活動の主舞台を移すと、その後継者としてソビエト議長となったのは、二月革命いらい州ソビエト副議長であったミコラ・ホルィニ(1945年生)であった。ミコラは、有名な異論派であるミハイロとボフダンのホルィニ兄弟の末弟である。兄たちが投獄されるのを見て、自身は積極的な反体制活動に加わらず、建設分野の技術者として生きてきた。ソビエト副議長に選出される前の役職はある工場の建設ビューローの指導者(おそらく部下10人程度の役職である)にすぎなかったから、1990年以降の出世は主に兄の威光によるものと言える。
ソビエト議長ホルィニは、1994年の州ソビエト議長選挙(事実上の州知事選挙)に出馬し、ウクライナ共和党の支持を受けた。大統領代表であったダヴィム力は出馬せず、ホルィ二の最大の対抗馬は、フランコ地区ソビエト執行委員会議長のワシリ・ゼラ(1945年生)であった。ゼラは、ホルィニを支持するウクライナ共和党よりもヨリ民族主義的な諸政党(ウクライナ保守共和党、ウクライナ社会民族党、「ウクライナ民族アサンブレヤ-ウクライナ人民の自己防衛」)の支持を受けた。ちなみに、