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ポーランド領となった。遊牧民やフィン・ウゴール族と活発に交流・混血したロシア人と比べて、16世紀以前のウクライナでは、古代ルーシの文化や言語がむしろヨリよく保存されていると言えるほどであったが、ポーランド領に入って以降のウクライナのエリートは急速にカトリック化・ラテン化・ポーランド化され、後にロシアと東スラブの本家争いをする上で不利な条件が生まれた(13)。ただし、ポーランド化は、ドニエプル左岸の土着エリート、すなわちコサックの反発を生み、17世紀にはコサックと農民の大反乱が起こる。ロシアはこの反乱を利用して、左岸ウクライナとキエフ市周辺を自国領土にしてしまう。これにより、ウクライナは、ドニエプル川を挟んでロシアとポーランドに分割されてしまったのである。

18世紀には、ロシアとコサックの連合軍がオスマン・トルコを次第に圧迫し、黒海北岸地帯(こんにちの南ウクライナ)を征服する。こうした征服経過から、革命以前は、この地は「新ロシア」と呼ばれた。同じ18世紀、ポーランドは衰退し、ロシア、プロシア、オーストリアに3分割されてしまう。この結果、のちのウクライナ領のうち、右岸ウクライナをロシアが、カルパート山脈東麓(ハリチナ、ロシア語ではガリツィヤ)をオーストリアが取った。つまり、ポーランド分割の結果、ハリチナを除くウクライナの全て(大ウクライナ)がロシア領に入ったわけだが、これはあくまで政治的な占領にすぎず、右岸ウクライナはその後もポーランド系の貴族(およびユダヤ人(14))の圧倒的な影響下にあった。1897年における右岸ウクライナ3県、キエフ、ポドリヤ、ヴォルィニにおいてロシア語を母語とする住民は、県の全住民のそれぞれ5.9%、2.4%、2.2%を占めるにすぎなかったのである(15)。こんにち、西ウクライナはウクライナ人の伝統が強い地域、東ウクライナはロシア化された地域とよく言われるが、歴史的には、西ウクライナではポーランド人とユダヤ人が優勢、東ウクライナではロシア人とウクライナ人が優勢、という対照があったのである。なお、オーストリア支配下のハリチナも右岸ウクライナと似たような状況にあった。(ハリチナを支配する)オーストリア政府の方が(大ウクライナを支配する)ロシア政府よりもウクライナ文化運動に対して寛容だったとよく言われるが、それはあくまで一握りのインテリが享受した条件であって、ウクライナ農民の状況についてみると、ハリチナよりも右岸ウクライナの方が良かった。つまり、いずれも現地のポーランド系貴族の勢力を製肘する目的で、オーストリア政府はウクライナ知識人を利用し、ロシア政府はウクライナ農民を利用したというだけの話である。

1917-21年の革命期にはウクライナの独立を目指す泡沫政権がいくつか成立・交替するが、結果的には大ウクライナはソ連領に、ハリチナは新生ポーランド領に編入された。右岸ウクライナのポーランド系貴族は革命によって撲滅された。革命のおかげで居住制限を解かれたユダヤ人の多くもソ連中央部に向けて去った。他方、

 

 

 

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