明治22年(1889年)にはすでに宮田線が引かれている。また石炭産業の興隆とともに昭和13年(1938年)には現在の基礎となる道路網の骨格はできている。それにともない町の南東部の炭鉱区域への人口集中が促進され、その傾向は昭和42年(1967年)までみられる。現在では宮田線が廃止され、また炭鉱区域内の道路が町道として整備され、網の目状になっている。人口分布は、住宅団地などの整備により分散傾向を示している。
3 地域資源
(1)宮田町の沿革
「宮田」の地名が起こったのは嘉禄年間の宗像神社の社領となった時、「神田」の意味で「宮田」とよばれるようになったと伝えられている。藩政時代から明治にかけて、庄屋、戸長役場など行政上の変遷を経て、明治22年町村制が施行され、宮田村、香井田村、笠松村が誕生し、大正15年(1926年)町制により、宮田村が宮田町と改称、昭和2年(1927年)香井田村を編入し、さらに昭和30年(1955年)3月、宮田町と笠松村が合併、同年7月に若宮町の一部を編入し、現在の町域となっている。