しかし、Joy Projectの実体はあまりにも華奢だった。キャラバンに人手をとられてしまうと、事務レベルで十分動けるスタッフが確保できなかった。全国を巡るキャラバンが予想以上に大変な事業であり、全国で熱いエールを送ってくれた仲間にその後情報を送り続けその地方の核となってもらいたかったが、十分な対応をすることができなかった。
企業スポンサーの支援もあったが市民活動の社会的な評価が低い日本では、十分な活動資金とはなり得なかった。
その結果、実務能力の高いスタッフを事務局が抱えることは金銭的にできなくなってしまった。Joy Projectが用意できる資金は事業内容が派手な割にはあまりにも少なすぎた。
当事者の車をみたいという想いとJoy Projectへの期待とJoy Projectの実体のバランスが悪かった。全国10ヶ所のキャラバンだけでは、十分な情報提供とうねりをおこすことはできなかったであろう。しかし、キャラバンの会場を増やすことによって、Joy Projectに対する期待が当事者のなかでうなぎ登りに高まったことも事実である。われわれはジレンマに陥っていった。
第3節 活動の継統のために
Joy Projectに限らず市民団体の活動基盤は脆弱である。安定した活動を確保するためには資金的な裏付けがなされなけれぱならない。
しかし、市民団体への社会的評価はあまりにも低い。環境問題にしても、市民団体であるが故に非常に価値的な行動と成果をあげている現実はある。しかし一皮むけば中心となっている人が私財をなげうつような形で活動を継統しているケースがほとんどである。
これは、国民1人1人が国家を形成しているという意識の欠如に他ならない。「国があなた方のために何をなすべきかではなく、あなた方が国のために何をなすべきかを考えよう」という内容の有名な演説があるが、残念ながら今の日本ではこの話さえ異次元である。
皆が何となく生活し、「誰かがやってくれる」「自分には関係ない」「しょうがない」と思い、一部の人たちだけが国民のほとんどを犠牲にして甘い汁を吸っている状態が長く続いている。選挙における投票率がそれを如実に物語っている。
どこかで断ち切らなければならない。
いつかどこかで作られたこの日本のシステムを変えていけるのは、利益を目的としない市民の連携、つまり市民団体の活動しかない。
Joy Projectはそれを「福祉」という切り口でおこなってきた。
今後の日本を憂う意味からも、Joy Projectのような市民団体が十分活動できる環境、国民的意識の変革を早急に実現しなけれぱならない。
そのためには力を持つ市民団体同士の横のつながり、連携が必要になってくるであろう。Joy Projectにもその意識はある。
しかし、実現までには遠い道のりがある。そして準備段階を含め、実現するためには行政や大企業の思惑に左右されない、おおきなバックボーンが当面必要になるであろう。
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