
天平時代の瀬戸内海航路
万葉歌にみる当時の航路
海野太郎
平成の時代の旅は、飛行機もあれば新幹線もあり、勿論高速の船舶もありで、なにひとつ不自由いたしませんが、これらの交通機関がなかった頃の旅は自分の足で歩くか、駕籠か馬の背、なかでも海路は当時の船が小さかったことを差し引いても、ある程度の人数が一度に搬送でき、大変便利な交通機関であったと思われます。
天平八年(奈良朝時代、西暦七三六年)朝廷が使いを新羅国に派遣したとき、使人は難波の港(現在の大阪)を船出して瀬戸内海を西に航海していますが、そのところどころで詠まれた歌が、万葉集巻第十五に収録されており、万葉歌に詠み込まれた地名をもとに人力と風だけがたよりの当時の小船が、瀬戸内海をどのように航海したか推測してみたいと思います。
「天平八年丙子夏六月、使を新羅国に遣はしし時に、使人等、各々別れを恋しびて贈答し、また海路の上にして旅をいたみ思いを陳べて作る歌」
(抄録)
〇大伴の三津に船乗り漕ぎ出ては
いずれの島に庵せむわれ
三津(難波の港=現在の大阪市南区心斎橋三ツ寺町付近)で船乗り漕ぐぎ出したなら、どこの島に仮の宿りをするのでしょう私は。
○朝びらき漕ぎ出て来れば武庫の浦の
潮干の潟に鶴が声すも
朝船出をして漕ぎだして来ると、武庫の浦の潮が干た潟に鶴の声がすることよ。
注、「武庫」=兵庫県武庫川河口付近を中心とした、尼崎市から西宮市にかけての海浜地。
○天離る鄙の長路を恋ひ来れば
明石の門より家のあたりみゆ
都を離れた遠い果てからの長い道中を、恋しく思いながらやって来ると、明石の海峡から懐かしい家のあたりが見える。
○吾妹子が形見に見むを印南都麻
白波高み外にかも見む
あの子の形見として印南都麻を見ようと思うのに、白波が高いので船を寄せかねて、遠くにしか見えない。
注、「印南南麻」=播磨の国風土記、印南郡の条に郡の南の海中にある小島だとしてある、現在の兵庫県高砂市沖。
○むばたまの夜は明けぬらし多麻の浦に
あさりする鶴鳴き渡るなり
夜は明けたに違いない、多麻の浦で餌をあさる鶴が鳴きわたること
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