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松谷みよ子さんに聞く

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本田節子

(『小百合葉子と「たんぽぽ」』著者)
『龍の子太郎』が生まれたのは、一九六〇年(昭和三十五年)です。日本でもいくつかの賞を受け、二年後にはハンブルクで国際アンデルセン賞優良貨にかがやきました。
作家の坪田譲治先生は「日本から世界に歩みだした,龍の子太郎』と、解説に書いておられます。坪田先生の賛辞よりうんとまえ、「劇団たんぽぽ」はこの名作を舞台にのせました。当時、パスポートが必要だった沖縄での胸いたむ公演でした。いらい北海道まで、日本縦断公演をつづけました。小百合葉子は、日本人が伝えつづけてきた日本人のこころを、日本の子供たちに手渡ししたかったのです。そして五十周年という大きな区切りの記念に、『龍の子太郎』は三たび「劇団たんぽぽ」にかえってきました。
精神的にも大事なものを失ってきている日本の子供たちに、くじけない太郎のたくましさを。それも、舞台芸術にまで高めたものとしての受け渡し。これが、劇団たんぽぽの願いです。
そこで作者の松谷みよ子先生にお会いしました。
「文学への出発」

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松谷 十八歳ごろの私は、東京で海軍水路部に徴用されていました。毎日の大空襲のなかでしょう。海の深さを測ったものを検算しろといわれても、それが空しくてねえ。お昼休みになると、てのひらほどのメモ用紙に童話を書いていたんです。
本田 十七歳から書かずにおられなかった原点は。松谷 弁護士で衆議院議員だった父が、「政治より芸術が尊い」と常々いっていました。母も、家事のことは一切しなくてよろしい。嫁にいけば一生台所に立たにゃならんのだから、いまのうちに本をよみなさい、といって本をダーと揃えてくれましてね。そうゆう環境があって、なにかを表現する人になりたい、という気持ちがっよかったんです。絵かきになりたかったけど、毎日空襲で油絵どころではないでしょう。心にあるものを表現する、そう思ったら好きだった童話を書いていたのです。
よみがえった小太郎
本田 『龍の子太郎』を書かせたものは。松谷 民話採録で歩いた信濃で、断片化している小太郎の話を聞きました。このままではいけない。祖先ののこしてくれた話をよみがえらせ、日本の子どもに渡したい。本田 太郎になにを託したくて…。
松谷 水にうちひしがれた民衆、水に耐えた民衆がいて、一方には食っちゃね、食っちゃねの小太郎がいました。その子が母龍の背にのって、湖を切り拓くという大事業をするんですね。いま、こんなに進んだ世の中なのに、なにか困難があると自分にはできないものだと思いがちです。民話はそうではないのです。目のまえの困難をはねかえす力をもっています。私は水という命を支えるものと、困難をのりこえ、まえ向きに生きる太郎を生きかえらせたかったのです。
本田 本を書くことを触発する種のようなもの。それが先生のなかに根付く瞬間には、なにか実感がございますか。
松谷 『死の国からのバトン』を書いたときでした。山形の黒川能をみながら、なにかがささやきかけてきたというのはありましたね。その瞬間は、芝生の上に鳥の影がチラッとおちるぐらいの、かすかなものなんです。土も汚れ空気も汚れ、水も汚れ、そうゆうのを精霊がかたりかけてきたんです。でもそれをそのまま、じゃ明日から書きましょう、ではだめなの。ですから、何年間も黒川村、日本海と歩き回りました。そうするとそこでいろんなものが体に入ってきて、ぼうっとしていたものに形ができてくる。そこまで待つんです。
バトンタッチ
本田 チラッはだれにもくるように思えます。それを感知するかしないか。温めるか温めないか。チラッが映る鏡の明度といいますか、種がおちる土壌の豊かさ。つまりチラッ以前に、先生ご自身がバトンタッチをうけておられるのを感じます。

 

 

 

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