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■演出 熊井宏之

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稽古場のなかで
関西在住の友人から、こんな話を聞いた。
つい数年前の話なのだそうだ。ある劇団が『龍の子太郎』を上演していた。その最終景、太郎が龍に姿を変えた母の首にのって、山を打ち砕くクライマックス・シーンで、ひとりの子どもが、「あ、自然破壊だ!」という声をあげたというのである。その瞬間、観客席が、ふっと静まりかえったというのである。
断るまでもないが、松谷みよ子さんの『龍の子太郎』のなかでは、太郎とその母は考えもなしに山を打ち砕いたのではない。きびしい山の暮らしのなかで、ひと粒の米も味わった事のない人々のために、山を砕き、湖の水を引き、そこに、「見わたすかぎりの田んぼ」をつくり、「はらいっぱい喰える暮らし」をきずきたいと願って、母子力を合わせて山に挑んだのである。一九六〇年、作者三十四歳のときに書かれた『龍の子太郎』は、信濃・秋田地方に伝わる「小太郎伝説」に入念に分け入りながら練りあげられた。松谷みよ子さんの、最高傑作のひとつである、その劇団も、そうした原作の創作意図に共感し、その感動を今に伝えようとして劇化に取り組まれたに違いない。にも拘らず客席であがった子どもの声は、「自然破壊だ!」だったのである。そして、この問題は、今回の私たちの上演でもうけつがれて行くに違いない。
子どもたちが、こわされて行く山を見て、自然破壊だと心を痛めるのは、もちろん正しい。しかし、そこには、とりわけ戦後五十年をへた私たちのすさまじい程の暮らしの変化があることを見逃すわけにはいかない。「バブル」と言われる時期に、狂ったように土地に値をつけ、それを買い占め、まるで土地を投機の対象同然にあつかってきた、私たち大人の問題がある。
農業というものは、人間が手を加えない土地では成立しない。
でこぼこの地面をかきならし、かきならし、豊かな水を引き、照り輝く太陽の光の恵みを得て、はじめて、さわさわと稲は実るのである。そして、それらの仕事を通して、私たちの先師たちは、「労働」というものの大切さを知り、生命の源である土地−自然のありがたみを感じる生きものになってきたのである。そのことと、土地を金もうけの手段として売り買いしてきた昨今の私たち大人との間には、決定的な違いがある。
それにしても、『龍の子太郎』の明るさ、のびやかさはどうだ。はだしで地面に立ち、山を走り、日光を腹いっぱい飲んで、風を胸いっぱい吸って、山の様々の生きものと共に生き、天狗と力比べをして、鬼に立ちむかう。純正な生きものとしての五感の持ち主、なのだろう。
この作品に取りくんで二ヵ月、やっと私たちは、松谷みよ子さんの、この原作のほんとの魅力が、ほんの少し、分かりかけてきたような気がしてきている。
『龍の子太郎』は、決して忍苦の物語ではない。明るい、おおらかな、ユーモア溢れる「人間」の物語なのだ。
飽食の時代といわれる今、私たちの『龍の子太郎』は、どんな舞台として成立できるのか。それは、私たちの舞台が、太郎のもつ、明るさ、おおらかさを、小手先の芸ではなく、うそいつわりのない自分自身の生きものの感覚として感じはじめたとき、辛うじて、道はひらけはじめるのではないかという、予感だけは感じはじめているのだが…。

 

 

 

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