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医学教育の一環としての献体

 

産業医科大学

 

産業医科大学は、優秀な産業医を養成するために、昭和53年4月に開学されました。本学卒業生の)多くは、すでに産業医として各方面に活躍しています。
産業医の活躍は、わが国が第二次世界大戦後、世界的に眼を見張る工業中心の産業の発展に伴った国家、産業化社会において、大いに期待されています。本学の設立は勤労者の健康維持と増進を図るために、労働省が積極的に其の設立と運営のために努力した結果です。
本学の設置場所が北九州市でありますことは、その設立の目的にかなっています。すなわち、当市は新日鐵を中心としたわが国の重工業地帯の一つで、工業技術の進歩にともなう極めて高度に産業化が進んだ地域です。
当市は昭和38年2月10日、5市合併(小倉、若松、戸畑、門司、八幡の各市)の人口100万の政令都市であり、近隣の直方(のうがた)市、中間(なかま)市、飯塚(いいづか)市、その他などを含め150万の人口があります。
献体の会として、医聖会は、本学始め地域の皆様の御理解と御協力の下に設立され、医学教育に重要な役割を果たしてきました。
開学当初、2年目から開始の解剖学実習のため、第1講座北條教授を中心に御献体の確保が急がれ、昭和53年10月には献体の会、医聖会とその事務室の設置が決定しました。幸いにしまして、設置と同時に会員の最初の申込がありまして、御献体は、開学1年目、昭和54年3月に13体に達し、その後も順調な状況で、2年目、昭和54年10月の医学部第1期生の解剖学実習には25体を超えることが出来ました。
このような成果は、大学当局の医学教育、解剖学に対する強い後援と北九州市当局者の御理解と同時に、献体確保のために山口大学医学部解剖学教室の献身的な協力など、近隣大学からの恩恵があったことによるもので深く感謝しています。
本学の第1号の御献体は、医師でありまして、同時に当時の眼科学栗本晋二教授の御尊父(御自身も医師)でありましたことは特筆に値すると思います。
また、本学の慰霊堂は全体で840、現在330体の御遺骨を御納めできるように御遺族の要請を満たしています。なお、慰霊式は、当初盆供養の形で肉眼解剖学だけで行っていましたが、現在は盆供養も含め無宗教で全学的な参加の形になりました(写真)。

 

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