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献体と解剖学の原点と新たな展開

 

京都府立医科大学

 

そもそも、「献体」という言葉はどのような歴史を経て作られてきたのであろうか。
献体という用語は、岡山県笠岡市に住む社会奉仕家、長安亮太郎氏が1966年(昭和41年)3月25日号の三備新報のなかで(笠岡市、旬刊)善意銀行関係記事の見出しに「献体預託第一号」を使ったことに由来している。長安氏が献体運動を推進されるようになったのは、東京を中心にして倉屋利一氏らが行っていた遺体寄贈運動の趣旨に賛同され、この運動を岡山県下で活発に広めていったことによる。そして、この言葉が作られたルーツは、1963年(昭和38年)に、不老会の会員を各大学に紹介する記事があり、この文書が「遺体献納」という用語を用いていたことに影響があるとされる。その結果、笠岡市の長安氏が善意銀行の事業として献眼、献血に「献体」という行為ならびに言葉を加えることを提唱されたのである。以後、「献体」と言う言葉は急速に全国的なひろがりをもって使用されるようになった。
京都府立医科大学における篤志献体登録制度は、1973年(昭和48年)からはじめられた。その献体登録第一号は京都市上京区大宮通りに住む、松本正一氏(当時60歳、1973年8月23日登録、1981年4月3日逝去)であった。
以後順調に増加し、1982年(昭和57年)には年間71人の方から登録の申し込みがあり、毎年60人から100人近い方からの登録申請がある。最も過去において多かったのは1983年(昭和58年)で、一年間に128人の申し込みがあった。この年は、献体制度が法制化され、新聞やマスコミ等による報道が大きく取り上げられていたからであろうと思われる。1996年6月末現在では、累計登録者数は1,380名に達している。
私たちは、本学における解剖学実習の遺体が100%篤志家のものに委ねられるように、努力を重ねている。そして、このことは日本のみならず、欧米の大学においても解剖学教育の最終的な指標とされている。なぜなら、篤志家による献体行為そのものが、医学生の倫理的生命感を醸成するのに大きく作用するからである。と同時に、生前の健康状態などを篤志家の方から直接確認することができ、実際の解剖時にその既往歴、手術歴などが非常に参考になることもしばしばであるからでもある。
したがって、解剖学教室としては、献体運動を今後も精力的に推し進め、アイバンクなどとも協力関係を密にして、人々のボランテア活動を強力に支援していきたいと思っている。そして、ともすれば閉鎖的になりがちな人体解剖学教育を、より社会的な観点からとらえなおしたいと考えている。
解体新書を著した杉田玄白は、蘭学事始めのなかで、東京骨ヶ原の刑場で初めて解剖された遺体を観た興奮まださめやらない帰路、前野良沢、中川淳庵らと会話し、「いやしくも、医の業をもって互いに主君主君に仕ふる身にして、その術の基本とすべき吾人の形態の真形をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来りしは面目もなき次第なり。」とある。
私たちは、今原点に戻り、医学を学ぶ者にとってきわめて重要な登龍門であり、“洗礼”である人体解剖学を、献体運動という点から見つめなおす時期にきている。
(教授 河田光博)

 

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