「しらゆり会福井医科大学支部」の16年
福井医科大学 福井医科大学の献体組織は昭和55年の開学の時点で福井県内に「しらゆり会」の組織作りがすでになされていたこともあって、金沢大学の「しらゆり会」の支部の形で始まりました。 「かかかかか・・・とかか・・・かかととふ」、「かいとととかふかかかふと・・」、この奇妙な文字の連なりを何と思われますか。「か」、「と」、「ふ」、「い」から成り立っており、何かの呪文かおまじないのようです。実は、これはしらゆり会員名簿(昭和54年版)の一部分を抜粋してきたもので、「か、と、ふ、い」は会員番号の前に付けられている献体先大学を表す文字記号です。つまり、「か=金沢大」、「と=富山医薬大」、「ふ=福井医大」、「い=金沢医大」ということです。「しらゆり会」は金沢大学の献体組織として作られましたが、富山、福井に新たに医学部が造られることを見越して、予定の大学のための会員登録を途中から始めていたのです。「しらゆり会」そのものは、故山田致知金沢大学名誉教授と富山善意銀行の中井精一氏を中心に富山、石川、福井の北陸の地で昭和44年活動を開始しました。福井医大の開学当時、福井県在住のしらゆり会員数は274名で、福井医大に登録の方はたったの31名(昭和54年秋の段階)と少なく、開学1年半後に予定されていた解剖実習がまともに行えるか大変心配されました。 しかし、支部の会員数は年間50−80の増加を示し、実際の遺体提供も予想より多く、最初の人体解剖実習は学生6人に解剖体1体、数年後には医学生4人に1体、さらに3人に1体となり、夏には局所解剖実習を実施し、多くの若い臨床の医師や高学年の学生が参加するに至っております。 「しらゆり会福井医大支部」の代表者には福井医大のある松岡町の町長であった土肥春夫氏にお願いしてきました。氏は批判力旺盛で万年青年の趣のある方で、「死んで遺体を燃やすのはもったいない。医学のためにお役にたちたい」、と早い時期から「しらゆり会」に入会され、ご母堂様と奥様も前後して入会されました。土肥さんは福井医大の開学までの経緯にも詳しく、解剖学教育に深い理解を示され、県内での献体運動の浸透と発展にご尽力くださいました。また、支部の役員の方々はどなたも豊かな人間性があり、発言や談話になかなか蘊蓄があって、楽しく有意義な時間を持ち合うことができています。 ところで、しらゆり会の総会は従来、金沢大学医学部の十全講堂で開催されていたのですが、4年前より3支部が持ち回りで総会を開催することになり、福井で既に2回の総会が開催されました(写真参照)。そして、以前から時々話が出ては消えていた「各支部独立」の話がこの1年ようやく現実味を帯びてきて、いよいよ平成8年10月の富山での「しらゆり会」総会において、審議をするところまでこぎ着けました。「しらゆり会福井医大支部」は平成9年4月には「福井医科大学しらゆり会」と名を改め、単独の組織として歩み出すことになるでしよう。 (解剖学講座 野条良彰)
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