日本大学医学部献体史
日本大学医学部 日本大学医学部白菊会は中山知雄教授(第一解剖学講座)と手塚雅春講師(当時)(第一解剖学講座)の尽力により昭和39(1964)年7月に発足した。 日本大学医学部白菊会の登録第一号は、現在第二解剖学講座に残されている白菊会入会申込書(甲)によると、高橋清子(季与子)氏か伊藤み堂里氏である。高橋清子(季与子)氏は白菊会会員番号514、入会申込書の日付は昭和39年7月23日である。伊藤み堂里氏は白菊会会員番号518、しかし入会申込書の日付は昭和39年7月10日で、高橋氏より13日早い。他方、白菊会会員番号513の木村英雄氏が日本大学医学部白菊会の登録第一号である可能性がある。というのは、高橋清子(季与子)氏が日本大学医学部白菊会の会員に登録されたことを知らせる白菊会会長の倉屋利一氏からの手紙の最後の頁が残っているが、そこに木村英雄の名が高橋清子(季与子)の名と併記されているからである。しかしながら、木村英雄氏の白菊会入会申込書(甲)は現存せず、また倉屋会長からの手紙は最後の1枚のみが現存し、そこには何々などお手を煩わすことという文面があるのみで、木村氏に関する詳細はこれ以上は分からない。 日本大学医学部白菊会の最初年の入会者は4名である。次年の昭和40年は6名、昭和41年は3名であった。このように白菊会設立当初の数年間、入会者は遅々として増加しなかった。しかし近年は新入会者が年間約50名と急増し、平成8(1996)年7月31日現在で登録会員の累計は1,459名である。 日本大学医学部へ最初に献体された白菊会会員は会員番号576の清水信三氏である。清水氏は昭和39年11月19日に入会され、昭和41年6月7日に死亡された。御遺体を翌8日に受領し、系統解剖後、昭和42年1月に火葬して御遺骨を返還した。会員の御遺体の受領は白菊会設立の当初より医学部教職員と葬儀社の相馬屋とが協同して行ってきた。御遺骨の返還は手塚雅春助教授が全ご遺族の家を訪ねてお返ししていたが、手塚雅春助教授が故人となってからはご遺族の意向によりお骨を教職員がお家へ届けたり、あるいは系統解剖実習室に隣接する大学の霊安室でご遺族へお渡ししている。何らかの理由で御遺族へ遺骨が引き渡されなかった献体者の遺骨は、松戸市にある医学部所有の八柱霊園に納骨されている。毎年春と秋には教職員が八柱霊園に詣で納骨された方々の霊へ献花している。白菊会の献体者ならびに系統解剖に身を供せられた方々の慰霊祭を、医学部主催で毎年10月の第2土曜日に築地本願寺で行い、供養している。平成8(1996)年7月31日現在で献体された会員の累計は463名である。 日本大学医学部白菊会の運営は、白菊会設立の当初は中山知雄教授と手塚雅春講師(その後助教授)が、中山知雄教授の定年(1974年)後は小島徳造教授と手塚雅春助教授が、小島徳造教授の定年(1987年)後は星素教授と手塚雅春助教授が行ってきた。その間、平成元(1989)年、星素教授が実行委員長になって第35回白菊会総会を日比谷公会堂で開催した。手塚雅春助教授の病死(1990年)後は、白菊会の入退会事務、会員名簿の管理と白菊会総会の業務を第二解剖学講座の有國富夫教授と今田正人助教授が担当し、献体受領の業務を第一解剖学講座の星素教授と村上弦助教授が、村上弦助教授の転出後は竹本律子講師が担当している。 (第二解剖学講座教授有國富夫)
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