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吉岡弥生と献体

 

東京女子医科大学

 

献体に関しては東京女子医科大学では、昭和39年に白菊会支部として発足しました。最初の会員は昭和39年10月5日入会、白菊会本部登録番号500台でしたが、間もなく退会、次の方は1日違いの登録番号548の女性の会員で吉岡博人理事長の知人の方で、昭和63年7月成願されました。
昭和39年から昭和56年までは年間10〜30名の登録で、400名近くになりました。昭和58年の献体法制定後は年間100名前後の登録でしたが、平成8年現在2千名を越えております。
白菊会支部の団体の入会を希望しない方のために、東京女子医大献体の会があり、150名ですが、昭和63年以降は白菊会支部への入会のみになっています。
骨格標本としての献体の申込は古く,「女医の歴史・日本女医会」に記録され,一部抜粋しますと『昭和2年2月28日76歳で死去された高橋瑞子は生前「私が死んだら躯はあなたの学校へ持って行って、学生達の研究になれば結構だから、解剖に使って下さい。頼みましたよ。」とお見舞の人にいって吉岡弥生に約束させていた。』とあります。
高橋瑞子は済生学舎出身の女医で,吉岡弥生は本学創立者です。高橋瑞子の骨格標本を始め、本学関係者の骨格標本も大切に保存されています。太平洋戦争の空襲で病院の焼失の中、これらの骨格標本は守りぬかれ、現在も医学教育に、献体の精神を生かしています。
学生用解剖実習のご遺体の収集は戦後から長く、本学卒業生の病院関係者の協力で、ご遺体の収集数は昭和45年までは年間30体以上で,学生数は40名〜60名の時は、学生1人あたりのご遺体数は1/2体の実習も数回あり、1/3体で続きました。吉岡弥生の直接指導を受けた卒業生の母校への協力は力強いものでありました。しかし、昭和45年以降、医学部の新設,定員の増加と共に、従来の収集先の関東近県からの収集数は大幅に減少、学生増員による必要遺体数の増加と悪条件が重なり、昭和51年、52年の収集数は最低となりました。
しかし、その後本学卒業生と関係のない一般の方達が医学教育の理解、よい医師に育って欲しいと言う熱望と共に、多くの篤志献体の登録が昭和56年から増え、ご遺体の収集数も昭和59年以降は35〜50体で比率は全ご遺体の50〜60%、平成4年以降は95%が篤志献体による収集数となっています。
近年、解剖実習時間は減少していく傾向ですが、平成2年から新しい教育方法、テュートリアルが導入され,系統解剖実習は1学年、器官別、局所解剖が2〜4学年で行われるようになりました。高学年になるにつれ、解剖の重要性を認識し、正規の授業以外に、自主的な解剖の学習を切望するものが増えています。学生の要望に答えることができるのは篤志によるご遺体数の豊富なことで、解剖教育に携わるもの一同感謝している次第です。

 

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