日本財団 図書館


またたく間にすぎた年月-山形の献体運動24年

 

山形大学しらゆき会

 

出羽六十万石は、今日の山形県全域にほぼ重なる。これを統一した最上義光(もがみよしあき)は、最上川、須川、馬見崎川に囲まれる平地に城を築いた。遺構は霞城(かじょう)と呼ばれ、内堀と石垣に戦国の覇者の誇りが偲ばれる。その一角に、近年市街から移築された重文、旧済生館三層楼がある。明治11年に建てられたこの病院兼医学校は、いわゆる開化洋風建築の傑作である。おりしも江戸から、単身、下僕を従えて、馬上、新潟に至り、宇津峠を越えて、出羽路に入ったイギリスの女性探険家Isabella Birdは、Unbeaten Track of Japanの中で、当時の山形の超モダン振りを書き残し、この病院に触れている。
明治20年、国が医学校の整備を行った時、この済生館医学校が東北の医学の中心的地位を占めるべきであったが、旧上杉藩米沢選出の県会議員の猛反対によって、医学校は廃校の憂き目に遭い、数名の在校生を宮城県医学校(現在の東北大学医学部)に送って歴史を閉じた。この済生館医学校廃校のいきさつは、心ある山形県人にお家再興を願う執念の火をともし、戦後の医科大学誘致運動の火種となるのである。
昭和47年、山形大学に医学部設置準備費が予算化されるや、柳原吉次氏(旧山形高等学校教授,数学)、井関チトセ氏(旧女子高等師範出身、音楽教師、白菊会会員)等が、献体を申し出て、県当局を驚かせる。48年医学部設置とともに、中村隆医学部長、佐藤啓市事務長(会員・顧問)のもとに、山形大学しらゆき会の結成が準備され、49年6月、藤井俊雄理事長(元県総務部長、YTS専務)のもとに、13名の会員を得て発足することになった。その直後、倉屋利一、郡司乕雄の両先達が、遠路山形に至り、県庁と大学関係者の啓蒙に当たられた。
平成2年、藤井氏が献体を果たされた後、川崎良作氏、石川佐伎子氏と優れた理事長のもとで、6月19日現在、登録会員1,171名、献体実行者409名(収集遺体の48%)に達し、医学部は、本年1月1日を以て、会員登録者以外の遺体受け入れを停止するに至った。
この短い歴史は、山形県、山形大学医学部,楽山会関係者の資金及び精神的援助、とくに歴代医学部長の配慮の賜物である。教授陣からは、筆者の他に、一柳邦男氏(名誉教授、県立日本海病院長、麻酔学)、山形理氏(名誉教授、地学、俳人)、加藤宏司氏(教授、生理学)が会員に加わり、力強い声援を頂いている。
平成4年春、第99回日本解剖学会総会(会頭、白井敏雄教授)が開かれるに当たり、わが会が篤志解剖全国連合会第24回総会を担当し、全国の献体運動の仲間を春浅い山形に迎えることが出来た。
(外崎昭、会員番号10、理事、教授)

 

069-1.gif

 

解剖学実習室の北側「医学の森」(約500平米)がある。昭和51年、その西端に慰霊碑が設立された。この場所は、山形県知事の墓地指定を受けたものであり、約15年以上経過した献体者の遺骨が合葬されている。碑の前には“三世代の群像”(染谷英吾名誉教授製作)があり、黙々と星霜を重ねて、若い医学生たちの成長を見守っている。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION