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歴史を刻む解剖体収集

 

山形大学医学部

 

“無医大県解消”政策の鼻を切って、旭川医科大学、愛媛大学医学部、筑波大学医学群とともに、1973年9月29日、山形大学医学部が、学生定員100名を以て設置された。解剖体の収集は、同12月、酒田市立病院から最初の遺体を引き取り、外崎の前任地、東北大学医学部の施設を借りて、防腐処理と保管を行うところから始まった。国は解剖学関係の建築を優先的に進め、第8番の遺体から、自前の施設に受け入れることになった。人体解剖学の第1回実習は、75年,20体を以て始まった。79年に定員120名に増員、88年再び100名に減員して今日に至ったが、学生4名に1体以上の水準を下回ったのは、最初の学年のみである。
解剖体の収集は、すでに地元の誘致運動の段階から大問題で、山形県衛生部長木村亮太郎氏、同衛生研究所長村上次男氏らが、大いに頭を悩ましていた。山形県の中心に出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を含む朝日連峰が横たわり,生活圏を分断し、それぞれの地域が、隣接県との間に、歴史、経済的絆をもつ。
医療機関もまたその例外ではなく、山形市は東北大医、米沢市は福島医大、鶴岡市は新潟大医、酒田市は発足間もない秋田大医にと、それぞれが大小様々な関係を結んでいた。いわゆる系統解剖用の遺体の収集領域も、それらの医療環境と一体であると受け取られていたのである。
しかし、“案ずるより生むが安し”とはこのことである。山形大学医学部に対する地元の方々の期待は大きく、解剖体の収集実績は、極めて順調な経過を辿ってきた。
その第一の要因は、事務部の総務課と学務課、教室の教官と技官が、それぞれの職責の範囲を明確にしつつ、地元との連絡と引き取り業務については、常に一体感を以て努力したことである。第二の要困は、言うまでもなく、山形大学しらゆき会が発展してきたことによるものである。
このような歴史の蔭に、山形大学しらゆき会の項で名を上げた方々とは別に、初代の庶務係長山口友治、事務部次長廣井重美(会員)、解剖学助教授山崎正博(現秋田大学)の各氏、その他数々の縁の下の力持ちがいた。そして今も、解剖学両講座の教官は勿論のこと、73年以来の須貝信夫技官、74年以来の相原功技官、さらに後に続く人々の協力があってこそ、献体の尊い精神が実を結んでいることをここに銘記すべきであろう。
1,915名の卒業生の中から、石田肇(札幌医大、助教授)、辰巳治之(札幌医大、教授)、内藤輝(信州大、助教授)、埴原恒彦(東北大、助教授)、後藤薫(東北大、助教授)等、分野は分かれるが、解剖学を専攻する諸君を輩出していることは、解剖体収集の順調であったことと無関係ではないであろう。
山形大学では献体登録者以外に、行政関係の協力による遺体の提供も有り難く受け入れてきたが、平成8年1月1日を以て、それを停止し、いわゆる献体のみを受け入れる方針が決定され、土居勝彦医学部長の名において、各関係機関に通知された。
(山形大学医学部代議員外崎昭)

 

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