篤志解剖全国連合会の沿革
全連の変遷 献体篤志家の諸団体は昭和30年代に全国各地に結成され、それぞれ独自に運営されてきた。しかし、解剖体の対象として篤志家のご遺体の重要性が増すとともにこれらの団体間の連携を密にし同時に遺体受入機関である全国諸大学との交流を図り、その助言を受けることが必要となった。このため、昭和42年4月から日本解剖学会総会開催の都度「篤志(第1回目のみ特志)解剖全国懇談会」(於:名古屋大学)が開かれることになった。その後全国的なレベルで献体運動を推進するための恒常的機関の設置が必要であるとの気運が高まり、昭和45年6月19日「篤志解剖全国連合会設立準備委員会」が発足した(於:東京、学士会館)。会則等の原案もでき日本解剖学会を通じて全国の各大学の大多数の賛同も得、昭和46年3月31日「篤志解剖全国連合会創立総会」が開かれ(於:東京医科歯科大学同窓会館)翌4月1日第5回篤志解剖全国懇談会が東京女子医科大学講堂で開催された折、出席者の賛同のもとに、同懇談会は引き続き篤志解剖全国連合会(全連)の発会式と第1回総会に切り替えられ、発足するに至った。総会の開催は東京でのこの第1回から始まり,現在福岡での第26回(平成8年・1996年)までを数えている。 発足当時は東京大学医学部内の白菊会本部に事務局が置かれ倉屋利一・寺田春水両常任理事、郡司乕雄理事が実務担当にあたった。財政面では全連の活動を支える目的で昭和48年5月1日に財団法人・日本篤志献体協会(協会)が設立された。その頃全連事務局は東京医科歯科大学医学部解剖学第2講座内(佐藤達夫教授)にあったが,その後協会事務局とともに新宿国際ビル地下1階に1室を構えることになった。 昭和51年にはともしび会(岡山)の協力を得て第1回団体部会研修会が開催された。この研修会は献体運動の在り方と実践について意見と情報を交換し、併せて団体相互間の交流を密にすることを目的として開かれたもので開催数は現在(平成8年)21回を数えている。 広報活動としては会員から募集したデザインを基に,昭和49年から献体登録章(献体バッジ)を作製した。バッジについては、全連設立要望の提言がなされた当初から全国統一の献体バッジ作製の提案があり、これを受けて昭和46年より計画に着手し宮崎紀郎教授(千葉大学、工学部)のご尽力を得、昭和49年7月26日現在使用のバッジができた。また昭和49年より機関誌「全連ニュース」を発行したが、9号から「篤志献体」と改め、36号からは大きさもそれまでのB5版からA4版に変わり、現在37号まで発行されている。また献体登録者文集「私と献体」は第16集まで、学生感想文集「解剖学実習を終えて」は第18集まで発行されてる。各方面への配布広報資料として、第9回総会(昭和54年)の席上、投票によって決定された献体啓蒙ポスター(デザイナー・大里栄一氏)が作製されその後も計4種類が作製・配布されている。また、昭和56年に献体登録案内としてリーフレット「献体とは」が作製配布された。「献体手帳」は昭和57年から毎年作製され、現在に至っている。さらに昭和61年には病院、福祉事務所、役所等の窓口・担当者向けにマニュアル「正しい理解のために−献体」、昭和63年には「篤志解剖全国連合会案内」等を作製し、各方面に配布するようになった。 昭和57年には、念願されていた献体者に対する「文部大臣からの感謝状」の贈呈が実現した(篤志献体第21号の記載参照)。また「医学および歯学教育のための献体に関する法律」(献体法)が昭和58年5月25日に国会で可決・成立し、同年11月25日に施行された(篤志献体第23号献体法特集の記載参照)。さらにこの年の9月28日には国会議員による献体運動の支援団体として「献体推進議員連盟」が設立されている(篤志献体第23号の記載参照)。 また,昭和59年4月1日仙台において第1回献体実務担当者研修会が開催された。これは、各大学の実務担当者から情報交換の場を得たい旨の希望が
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