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2. 献体運動の沿革

(財)日本篤志献体協会の沿革

 

協会設立までの経緯

昭和46年篤志解剖全国合会(全連)設立以来、全連を法人化しようとする事項が懸案となっていた。当時の全連会長中井精一氏は昭和47年12月11日付で全連役員宛に「財団法人設立に関する中間報告」を行っている。それには文部省指導のもとに全連運営会議で検討し、(1)全連をそのまま法人化することは法的にも不可能であることが判明し、連合会と密着した財団法人を別個に設立する。(2)法人の名称は仮に「日本献体協会」とする。(3)連合会はそのままの形で存続させる。と記され、更に協会と全連の関係を図で示し、表裏一体であることを明記している。
当時は、岸元首相を会長とし、皇后陛下に名誉総裁をお願いし、3億円の基金を用意するなどの夢があったようである。
結局、文部省の指導があり名称は「財団法人 日本篤志献体協会」と決まり申請書を提出、昭和48年4月27日に文部省の認可がおり、同年5月1日登記を完了した。
この法人の目的は、“「天寿を全うしたのちに自己の遺体を解剖学教育の教材として大学に寄贈する」篤志献体の趣旨を広く国民の間に普及し、あわせて全国の献体篤志家諸団体を助成し各団体の活動の調和を図り、もって医学の発展に寄与する”ことになっている。その為の事業としては(1)篤志献体思想の普及。(2)篤志献体の実態に関する調査および研究。(3)医学教育における解剖学実習の効果を高めるための基礎的研究ならびにその助成。(4)献体篤志家諸団体の育成と助成。(5)献体篤志家の健康増進のための事業。(6)機関紙等の刊行。(7)その他目的を達成するために必要な事業。以上7項目があげられている。
設立当初の役員は、理事長・倉屋利一(白菊会理事長)、常務理事・山田致知(金沢大学教授)、郡司乕雄(白梅会理事長)、理事・中井精一(しらゆり会理事長)、寺田春水(北里大学教授)、上領素行(白菊会理事)、監事・浦 良治(東北大学教授)、大森浅吉(鹿児島大学教授)以上8名が登記されている。

 

協会事務所の変遷

篤志献体の趣旨を広く国民の間に普及し、あわせて全国の献体篤志家諸団体を助成し、各団体の活動の調和を図り、医学の発展に寄与することを目的に設立された財団法人日本篤志献体協会の事務所は、設立の経緯から当初は法人の初代理事長倉屋利一氏が在籍する白菊会本部(東京都文京区本郷7丁目3番地1号、東京大学医学部内)の中に置かれた。
実際の事業は篤志解剖全国連合会(全連)と共同で行うか、全連が行っていたが、全連の経済的支援が法人の業務でもあった。しかし、集金能力にも限界があり、活動は停滞、休眠状態となっていた。
昭和57年5月、協会を再建し、協会設立当初の目的を遂行することが必要であるとして、法人の理事・監事・評議員の改選が行われ、同時に事務所を移転した。
事務所は東京大学医学部内白菊会本部から日本大学歯学部内(東京都千代田区神田駿河台1丁目8番13号)となり活動を再開した。
活動再開後は、三橋公平理事長が私財を投じて再建を目指した。事務所については、ある特定の大学に迷惑をかけることも一時期を除いては避けるべきとの意見が出、東京都と交渉し、当時の續副知事と内野常務理事との人脈もあり、新しい事務所を構えることができるようになった。新事務所は、全連と共同で持つことにし、全連も東京医科歯科大学から独立することとなった。昭和60年1月1日付でヒルトピア株式会社と協会が賃貸借契約を交わし、新宿国際ビルディング(新宿区西新宿6丁目6番2号)地下1階25.178?部分に事務所を移すことができた。ここはヒルトンホテルのB1で至便の処にあり来訪者も多かったが、平成9年3月末には西新宿の地下道に組み込まれるため,移転を余儀なくされている。独立した事務所を持つことにより、特定の大学にご迷惑をかけずにすむばかりか、対外的にも信用度が増し、新しい一時代を画した。尚平成8

 

 

 

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