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都市災害が消防に求めるもの

横浜国立夫学大学院工学研究科教授 村上處直

 

(一)はじめに
私は、一九六二年に都市計画の研究者の立場で防災をやるように高山菜華東大教授から命ぜられた。その時、それまでの防災研究は工学技術的側面のものは数多くあるが、計面的側面のものは皆無なので、自ら考えて独自に切り拓いて行くように言われた。
その当時、騒音の問題や、大気汚染、水質汚濁という環境面での問題は大きくとり上げられ始めていたが、都市の災害に対する潜在的危険の問題については、ほとんど論じられておらず、自動車による交通事故死の危険などが都市の安全問題の中心課題だった。
われわれが、日常の営みを続けている都市にある潜在的危険が、何かの切っ掛けで大きな災害となり、人命や財産を失う場合、それを都市の災害又は都市災害と呼び、それらに対して都市計画的立場から研究し、その対応策を導き出すのが、都市防災の研究課題だった。その当時の日本は、敗戦後の混乱から、朝鮮動乱特需によって経済的回復が見られ、ようやく戦後が終わったと言われ始めていた時で、経済発展のためどんどん前進しようという時期だった。
そのような時期に、国を上げて一生懸命やっている経済開発に潜在する危険を指摘し、その対策を提案するという仕事は、反社会的に見られやすい仕事であった。せっかく経済発展のため国の建設に努めているのに、それにブレーキを掛けるような研究は無駄だと言われかねない状況であった。
一応立場が都市計画の研究者であったのでいろいろな地方都市の都市計画課を訪ね、その都市の危険な市街地の位置や、地盤の良し悪しの質問をしたり、工場の危険性等について質問すると、ほとんど答えは返って来なかった。そして多くの場合、地元の消防本部の予防部の人か、かつて消防で頑張っていたOBを紹介された。当時、消防本部を訪れると、壁に釣り下げてある、その街の地図の前で、この辺と、この辺が危険市街地だと教えてもらえた。それは人口の密集度が高く、道路がせまく、まち工場と住宅が混在しているような場所がほとんどで、消防活動上の問題箇所であった。
消防に勤めて三〇年、まちのすみずみまで足で稼いで知り尽くした知識が、そのまちの危険市街地を的確に指摘していた。都市計画サイドで防災計画を立てたり、防災対策を立てるためには、消防活動上の危険区域の指摘日は、大変参考になった。当時は、まだまだ目前に都市大火の危険があり、特に戦災を経験した多くの消防官が現役だったため、都市大火をいかに発生させないか、もし都市大火になったら、いかに被害を最小限に押えるかが消防の第一義的な使命だった。
私がこの仕事に入ってから起こった少し大きな都市大火は、一九六六年一月一一日の三沢市の大火(焼失四五〇棟)、一九七六年一〇月二九日の酒田市大火(焼失一、七七四棟)の二つぐらいで、一般的には消防力の充実と都市の不燃化や都市整備によって都市大火の危険は少なくなったと考えられている。
そのため、今日では都市大火の検討は、地震によって同時に多発するであろう火災によって、消火栓が使えない、道路が塞がれてしまうなどによって消防活動が十分出来なくなった場合の都市大火の危険の問題が検討されて来ている。しかし、現実に地震によって大火が発生した場合、現地の消防だけで出来ることは限られており、都市全体の危機管理体制の中に消防活動をどのように位置づけて行くかが大切な仕事になってくる。
また、平常時の都市大火は減ったが、新しい型の都市災害が起こるようになって来ており、消防に与えられる責務も、その内容も大きく変化して来ている。すでに消防の在り方も、都市の在り方に大きく関係しており、その消防本部が置かれている都市が、大都市なのか中都市なのか地方の小都市なのかによっ

 

 

 

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