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◇分水町消防本部◇(新潟)

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分水町は、新潟県の海岸線のほぼ中央、西蒲原郡南端の信濃川と大河津分水路との分岐点に位置し、町域の大部分は平坦地であり、穀倉新潟のシンボルともいえる「一望はるかな美田」が続く、豊かな自然と文化・歴史に恵まれた町です。
当本部は、越後線分水駅よりほど近い場所に位置し、一本部、一署、二九名の職員が、管内面積三九・六一?q2、人口一万六千人余りの防災の任に当たっています。
♪分水町の由来
「母なる川信濃川」は広大な越後平野を生み、豊かな実りと潤いを与えてくれる日本一の長河ですが、過去には洪水により荒れ狂う濁流が、町や村を没し、時に人の生命をも奪ってしまうという歴史を繰り返していました。
そこで越後平野を水害から守るため、信浪川の水を人工的に日本海へ流しだす手段として大河津分水路が造られたのです。分水路完成までの歴史は長く、享保年間の幕府への請願が二〇〇年余りを経た後に認められ、明治四二年、当時「東洋一」と言われた世紀の大工事が着工されたのです。完成までにも幾多の苦難があり、延べ一、〇〇○万人が携わり、一〇〇余人の尊い生命が失われましたが、越後平野の発展には、欠かすことのできない工事であり、人々は労を耐え作業に没頭し、着工から二二年という歳月をかけ昭和六年に完成したのです。
記念碑に刻まれた「人類ノ為メ、国ノ為メ」という言葉に人々の分水路に対する思いが偲ばれます。
分水町の歴史は治水の歴史なのです。
♪良覚さまの里
寺と弟子を持たず托鉢で生涯を送り、自然を愛し、子供を愛した良寛さまの修行の地としても有名な町です。
おおらかな人間愛に培われた良寛芸術の円熟期とされる詩歌や書が数多く今に伝えられており、時を超えて良寛さまゆかりのこの地を訪れた人々の心を魅了し続けています。
♪火災のない町を日指して
昭和三二年四月、り災世帯数三〇四、負傷者一七六名を出した地蔵堂の大火で、町は炎で覆われ、正に火の海となってしまいました。
二度とこの惨事を操り返すことのないよう火災予防運動期間中には、管内の全家庭を訪問し、防火診断を実施するという徹底した防火対策を行っています。
♪消防団と一体となって
消防団員数は、六分団三五〇名におよび「自分達の町は自分達の手で守ろう」という郷土愛から各種訓練等、署と一体となった活動を行っており、署幹部も団員に対し災害活動をはじめ、あらゆる面で全幅の信頼を寄せています。
また、消防団の機動力の充実を目的とし、二一台の可搬式ポンプを積載車により移動可能とする計画をたて、現在七台の積載車を配置しており、数年のうちに全積載車の配置を完了する予定です。
♪「信頼」で結ばれて
少数精鋭という言葉がぴったりの署員は、ひとりで警防業務、救急業務、予防業務と全てに精通したオールマイティーな猛者達の集団です。
藤田消防長も署員の教育には熱心で、決して妥協は許さず厳しく接しておられるとのことですが、「信頼」で結ばれた消防愛は燃え尽きることなく、地域住民の安全を担うべく署員の自己啓発に終止符は打たれそうにありません。
♪おいらん道中
長く厳しい冬の越後に暖かな陽が対しこむ頃、大河津分水路の桜並木は、一斉に咲きそろう薄紅の花びらで、辺り一面を春化粧したかのような艶やかさになります。
その中を、名物「おいらん道中しが、時代絵巻を思わせる幻想的な風情で練り歩き、老いも若きも心浮き立たせ、人々の笑顔と共に分水町に春が訪れます。(写真)
(椎谷敦)

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