
鎌倉の海
元東京商船大学教授橋本進
かつて、日本海技協会の機関誌「人と船」に『徐福の東渡を推理する』という一文を連載したことがある。そのなかで『丸木舟や小型の舟は河川の流域や湖沼の岸辺で建造し、舟おろしは引き出したり、押し出したりする方法がとられていた。それが、組立船のように少し大きい船になると、造船のときにすでに進水のことも考慮した場所を選んでおかなくてはいけない。
ところで、日本には古くから各地に徐福渡来伝説があるが、これを要約すると「秦の始皇帝の命によって方士・徐福は三千人の若い男女と五穀の種と多くの技術者を引き連れ、不老不死の神薬を求めて東方の神山に向かった。徐福は豊かな広い土地を見付けてその地に住み、薬草の知識や農耕。漁獲の技術を広めて神様とあがめられた」というものである。
中国においても1980年代ころまでは徐福については懐疑的であり、神仙。怪異の迷信、伝説上の人物とされていた。ところが1980年代に江蘇省・連雲港市近郊に徐福村があり、考証の結果、それが二千余年前の徐福の故里であることが裏付けされた。それとともに、考古学的な発堀も行われるようになり、徐福は何の目的でどのようにして、どこへ渡ったのかが改めて研究されるようになった。 そして、中国の徐福研究者たちはその造船場所、進水方法について種々考察を加えているが、進水方法についての私(橋本)の見解は「潮の干満差(潮差という)を利用したドライドック方式-つまり、川沿いに堀割を作り、満潮時に造船材をその中に引き込み、干潮時に堀割の水を干し堀割の口を閉ざしてその中で造船する。完成すれば干潮時に堀割の口を開け水を導入し、満潮時に船を引き出すという方法である。ちなみに、連雲港付近の潮差は約5メートルもある。鎌倉幕府三代将軍・源実朝は、鎌倉に下向していた宋の佛工・陳和卿に命じて渡宋用の唐船を作らせたが、唐船は海に浮かぶことなく、実朝の渡宋計画は失敗した。和卿が真の船大工ならば、進水のことを十分考慮した場所で造船したはずである。しょせん陳和卿は佛工であって舟大工ではなかったのである」という意味のことを書いた。
この実朝の渡宋船の話は『吾妻鏡』の巻第廿二および巻第廿三に出てくる。吾妻鏡は鎌倉幕府が編纂した歴史書で52巻(ただし巻四五は欠如している)からなる。内容は治承4年(1180)4月9日、以仁王の令旨を奉じた源頼政の宇治での挙兵から、文永3年(1266)宗尊親王の帰京までの87年間の史実
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