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なくなっているが、交響曲に合唱を導入するなど、破格中の破格。いくら音楽学者がべートーヴェンを弁護しようと先例を探したところで(一応、先例がないことはない、という議論が定着している)、滅茶苦茶な蛮行であることに変わりはない。
さすがの革命家も怯んだ。構想段階では、弦楽四重奏由作品132の終楽章に転用された主題に拠る器楽由が有力だったほどである。想像するに、そんな風にして完成されたなら、べートーヴェン作曲の〈交響曲第9番〉は、晩年の弦楽四重奏曲の深遠な世界を管弦楽に置き換えたような、それはそれでなかなか通好みの傑作だったことは確かだろう。
だが、たとえばどんなに名曲と言ったところで、マーラーの〈第9交響曲〉は、〈第2交響曲「復活」〉に置き換えることは不可能なように、もし「ダイク」がそんな深淵だが地味な皆楽だったならば、日本の年末風景は相当静かなものとなっていたろう。いや、クラシック音楽という文化そのものが、いまとは全く違った形になっていたかもしれない。広く大衆とコミュニケーションのチャンネルを持った文化としては、とっくに滅びていた可能性だってある。
1824年、べートーヴェンが手を入れたシラーの詩句を終楽章に持つ9番目の交響曲が、膨大な音楽家たちと満員の聴衆で埋まったヴィーンのケルントナードーア劇場で初演される。全曲が終わるや、耳の不自由な作曲家は、皇帝への喝采をも凌ぐ大拍手とアンコールを浴びた。
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・ウン・ポコ・マエストーソ
モチーフ連結型の巨大主題に拠るソナタ形式。主題の生成過程そのものが短い序となる。提示部の機械的な繰り返しもなく、クライマックスを築く嵐のような再現も、単純な回顧ではない。
第2楽章 スケルツォ モルト・ヴィヴァーチェ、3部形式
1、3部そのものがべートーヴェンお得意のソナタ形式。ティンパニが強烈なリズムを刻む上、フガートで主題が出現する。
第3楽章 アダージョ・モルト・エ・カンタービレ
変ロ長調の黙想的旋律による変奏由に、ニ長調アンダンテ・モデラートが2度挟まれる。終止部で轟くファンファーレは、続く楽章への前触れ。
さていよいよ第4楽章だ。まずは歌劇を模した導入部。喧噪のような管楽器の雄叫び→先行3楽章の主題回想→「歓喜の歌」の発見、と続く。やがて管弦楽が、遥かフランス革命時の革命歌劇に由来する単純明快な大衆旋律(これぞ「歓喜の歌」である)を揚々と奏でるや、おもむろにテノール独唱が登場し、作曲者自身の不器用な言葉で、「これまでの全部を取り消して、好きにやろうせ」と宣言。
それから先は、俗謡、トルコ行進由、讃美歌、歌劇の重唱、ソナタ、変奏曲、ロンド、二重フーガと、音楽のあらゆる手法を次々に投入した、壮大な音のお祭りである。「芸術は爆発だ」といういまは亡き某前衛芸術家の言葉があるが、べートーヴェンがやったことは正にそれ。
交響曲のギリシャ語源シュン・フォネイン(一緒に響くこと)に立ち戻りつつ、自作を含めた過去の音楽全てを一旦否定し、神の前の平等な眼をもって、再び統合したのだった。
歓喜の中で虫けらと人間が平等になるよ

 

 

 

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