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シルクロードの観光についての講演

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朱 金諾
中国国際旅行社(日本)副社長

 

●1955年12月9日中国山東生まれ。北京外国語大学日本文学専攻卒業後、1977年中国国際旅行社本社入社、1979年初来日。1985年〜1987年中国政府観光局東京駐在代表。帰国後、中国国際旅行社本社日本課長。1989年9月より、中国国際旅行杜(日本)勤務、取締役営業部長を経て、1994年取締役副社長、現在に至る。財団法人アジア太平洋観光交流センター、シルクロード観光交流促進委員会委員。

 

私どもの本社は、中国で海外のお客様を受け入れを行なっている旅行社でございます。当社は日本で、お客様あるいは旅行会社の中国旅行お手伝いをしておりますので、本日は、中国領シルクロードを訪れる日本人のお客様に的を絞って、お話しをしたいと存じます。
「西へ、さらに西へ」
「中国から伝わる西方文化」
日本人にとって、「シルクロード」にはこの2つのキーワードを含んでいるように思われます。シルクロードの東端「長安」のはるか東、さらに海を隔てた「東方の東」に位置する日本にあって、日本人は直接西方の人々・文化・物産にふれるチャンスがありませんでした。また古くから「漢字文明国」にあった日本人は、例えば仏教のように直接ではなく、漢字あるいは中国文明というフィルターを通して未知のものを知る・学ぶ傾向があります。さらに、漢詩を作り、詩吟を楽しむといったように、自らを中国文化と同一視して、感覚を共有することも多いのではないでしょうか。
まず西へ、シルクロードの出発点「長安」−現在の西安−に至ることで目的の半ばを得て、そこからさらに西へ思いを馳せる。西方の未知の文化が中国文化と触れ、交流ときに融合したものに驚き、親しむ。その意味で、全長7,000?余に及ぶシルクロードの中に占める、中国領シルクロードの魅力、その価値はとても大きなものと言えましょう。
井上靖氏の小説「敦煌」に端を発した「敦煌熱」にうながされる形で、敦煌観光がスタートした1980年、当時の敦煌賓館はわずか40ベッドにすぎず、暑い中、酒泉から旧型のバスに一日揺られ辿り着いたお客様は、敦煌から100?手前の安西などの招待所=現在からみますとろくにシャワーもない簡易宿泊所に宿泊し、トイレ、食事などさまざまな苦労を重ねて2日間の敦煌見学をしました。全行程8日から10日間の内、移動がおよそ70%を占める苦痛の多い旅でしたが、その感動は苦労を補って余りあるものがあり、さらに口コミで希望者が増える状態が続いたわけです。
それ以降、日中双方の旅行業者がともに関係部門に働き掛け進めてきたシルクロード観光開発は、主に次のような点に力を入れてまいりました。
一つ目には、ガイドの養成です。スタート当時は現地ガイドがいないか極端に不足しており、北京などから同行するスルーガイドに全面的に頼っておりましたが、現在は英語・日本語などはほぼ需要を満たすまでになってきました。
二つ目には快適な新型バス、車の導入があります。馬力もなく故障がちな車が大半であったころは、お客様の体力消耗も激しく、スケジュール管理にも苦労が尽きませんでしたが、現在はかなり快適なレベルに向上しました。
三つ目は、ホテルなどの施設の、とりあえず量、それから質の向上です。スタート当時「新彊ウイグル自治区内にはバスタブが4つしかない」とまで言われておりしたが、現在拠点都市の宿泊施設は、お客様の満足を得られる相当レベルに達しています。
四点目には、航空路線の開発です。当初、敦

 

 

 

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