まちづくりの原点

〜コミュニティの花が満ち溢れることを願って〜
富沢孝吉(山形県上山市松山地区会長)
1.はじめに
樹氷とスキーのメッカ、秀峰「蔵王」を東に仰ぐいで湯の里、人口3万8千人の上山(かみのやま)市の温泉街に隣接する、エコミューシアム開発進行中の西山(にしやま)を背負う松山地区に、コミュニティセンターが建設されて3年余が経ちました。
400の全世帯がその力を結集し、5ヶ年に亘り建設資金を積立て、ここに自治総合センター、及び山形県、並びに上山市ご当局の絶大なご援助、ご協力あってはじめて完成をみたものでした。
西山の主峰の一つ、標高356m余の虚空蔵山は、往古「神奈備」(かんなび)の山で、山麓に点在する家々で村落を形づくり、「神のやまの里」と呼ばれ、上ノ山の地名の起りともいわれています。
中世の頃になってこの虚空蔵山に「高楯城」が築かれ、高台に在る松山地区は城下町として賜わったといいます。現在の上山市街地は、室町後期に高楯城が月岡に移転された後に発展した街で、その起点は実に松山台地の城下町にあったのです。
江戸時代初期に入って、臨済宗の名僧沢庵宗彰が当地に流され、4年間を松山地区で閉居した「春雨庵」が、昭和30年7月に再建されたこともあって、沢庵禅師が無言のうちに遺した禅の功徳は、当時の藩政は勿論、今日の社会全体にまで広く大きな影響を及ぼしています。
2.コミュニティづくりのはじまり
昭和30年代までは、凡そ100世帯の松山地区であったのが、40年代から50年代にかけて400世帯を超えるまでに急増した。
人たる以上は誰でも、自由と健康、豊かさと平和を享受できる権利があり、社会全体がそこに住む人々を包括して、しあわせを実感せしめる義務を負っています。
然しながら、そこに住む人々の認識いかんにかかる事柄であることから、まず、この意識づくりが先行することにならなければなりません。高齢者の比率が高く、若い世代の人々が少なくなった松山地区にあっても、地区づくりの理念は変らず、むしろコミュニティ活動による社会づくりは、これからその重要性を増し、本領を発揮するものと考えられます。
このことから昭和56年4月、松山地区会に、地区づくりプロジェクトチーム(専門委員会)を発足させ、次のことを申し合せ、順次その実現をはかることとしました。
@住民自治及び隣保共助の連帯感の強化をはかるため、45の組の隣組長による月例組長会の開催は継続する。
A上記@及びそれらに関連する話し合いや、活動の場としての公民館の建設は絶対に欠かすことのできない条件の1つとして確認した。
B400世帯の連帯感をさらに強化し、日常化するため、毎月1回地区公報紙を発行し、全世帯に洩れなく配布する。

05-012-1.gif

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ