
水府流の元祖とされる、島村流流水術の第四世達人、鳥村丹治昌邦は、1827年に島村流開祖から伝わる奥義を『水術傳習書』に綴っている。その中で、「休游」の背泳ぎを「のけさ」と称した。「のけさ」には、わり股と呼ばれる足動作が用いられ、あおり足で両足を左右に開き合わせた、だが、バタ足を使うには至らなかった。実戦的な泳行を好んだとされる島村丹治昌邦は、背泳ぎを「飾り用に立事なし」と容赦なく言い切っており、背泳ぎの用途が休息等の狭い範囲に限定されていたと想像される。1872年武田泰信の『練水要訣』では、「溺者を仰向け泳ぎで引っ張ること」とのくだりがあり、この当時の日本でも、溺者を仰向けで救助することが妥当だと認識されていた。
ここまで、我が国の背泳ぎの歴史を振り返ってきたが、この時代までの背泳ぎは、溺者の救助、泳者の休息などが主要な目的であったといえる。
4. 20世記以降の背泳ぎの競泳史および泳法の移り変わり
1)世界
近代五輪の歴史が1896年に始まったが、そのアテネ大会において、競泳はフリースタイル種目のみで争われた。背泳ぎ種目の登場は、意外にも平泳ぎよりも古く、1900年の第2回パリ五輪からであった。まず採用されたのは200m種目でこの時の優勝タイムは、2:47.0で3分を大幅に割り込んだ。
1903年には、全英大会で150yd背泳ぎが取り入れられ、2:06.8で泳がれている。100m背泳ぎは翌年の1904年のセントルイス五輪で、初めて五輪種目として加わり、優勝者は1:16.8で泳ぎ切った。逆に200m背泳ぎは、その後東京五輪まで実地されなかった。
1912年ストックホルム五輪で、背泳ぎは歴史的な変革を遂げる。ハリー・ヘブナー(Harry Hebner)が五輪の大舞台で、バッククロールストローク(backcrawl stroke)を世界で初めて披露した。このバッククロールストロークは、これまでの腕を水中で戻す泳法とは違い、抵抗を受けない水上を運ぶという画期的な泳法であった。このバッククロールストロークがこの大会を境に、背泳ぎのスタンダードとなり、現在のバックストロークと呼ばれる泳法に発展していった。
同じ頃、シカゴ・イリノイアスレチッククラブ(Illinois Athretic Club)のジム・ハンディー(Jim Handy)とコーチもバッククロールストロークを編み出していたとされている。
ヘブナーやハンディーによるこれらの変革は、背泳ぎ競技史上大きな功績であることには違いないのだが、その数十年前、クロール泳法に同様の大変革が起こっていたことにも気に留めておくべきだろう。トラジオン抜き手泳法がクロール泳法の主流になるのを受け、背泳ぎでも腕を水上で運ぶバッククロールストロークが生まれたと考えられなくもない。
1936年に開催されたベルリン五輪で、アドルフ・キーファー(Adolph Kiffer、米)は、やはり背泳ぎ史にその名を刻むほどの技術革新を行ったとされているが、それは、次のような点であった。
?@リカバリーは、肘を仲はした状態で行う。
?A入水を両肩の延長線上の耳の横に入れる。
?Bストロークは、肘を伸ばして浅く。
?Cトンボ返りターン(キーファーターン)の4つである。
その中で、?Bの「ストロークは、肘を伸ばして浅く」という描写が興味深い。現在では深いところに入水し、アップスイープし、再び深いところへとフィニッシュするジグザグストロークをしているが、この時代では浅いストロークが良いとされた。1ストロークでいかに進むかということよりも、むしろ、テンポを上げたリズミカルな泳ぎに重きが置かれていたことがうかがえる。さらに、この当時すでにトンボ返りターン(キーファーターン)がなされていた事実も、忘れてはならない。
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