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2.略図・政治

タイが統一国家として成立するのは、13世紀の中頃に起こったスコータイ王朝からである。それ以前この地域はクメール王国の勢力圏内であったが、その衰退によりスコータイ地方に内乱が起き、これを平定してタイ族によるスコータイ王朝が創建された。この王朝は、第3代国王の時代には強力な軍事力と高度な政治体制を作り、王都スコータイを中心とする現在のタイの国土より広い地域を制圧した。
14世紀中期、スコータイ王朝の勢力が次第に弱まり、1350年、すでに交易の中心となっていたアユタヤにアユタヤ王朝が起こった。以後、国家は繁栄を続ける。
1767年、ビルマ軍の侵攻を受け王都が完全に破壊される。同年タークシン将軍はアユタヤの兵力を再統合してビルマ軍を撃破し、アユタヤ南方約80キロのトンブリに王朝を開く。
タークシンは晩年精神錯乱状態になったため、1782年配下のチャオプラヤー・チャクリー将軍が後継者として王位につき、ラーマ1世となる。
ラーマ1世は都をチャオプラヤー川の西岸から東岸に遷都するが、これが現在のバンコクの始まりである。ラーマ1世は、ここに全盛時のアユタヤ以上の都市を築き、確固たる王制を確立する。
150年近く続いた1932年、ラーマ7世の時代に人民党による立憲革命が発生する。以後タイ国は立憲君主制国家となり、王制は国家の象徴として存続し、国王は専制的な権力を奪われ、人民党のピブンが首相として権力を掌握する。
1957年、ピブンの有力な後継者と見られていたサリットがクーデターを起こし、政権を奪取する。サリットは、国王を「国の父」と位置付け、その権威を機軸とした伝統的な社会秩序の復活を目指した。
1963年、サリットの後を継いだタノムの時代には、ベトナム戦争という時代背景のもと米国との協力関係を強化してゆくが、次第に政権の独裁と腐敗に対する国民の反発が強まってゆき、1973年10月、学生を中心とした市民による反政府運動が起る。
その後、軍のクーデターが相次ぎ不安定な状況が続くが、1980年に就任したプレム首相により一区切りがつけられる。陸軍司令官であったプレムは、軍の介入を極力制御して王室の支持を得つつ民主化路線を進め、1988年の総選挙まで長期安定政権となった。総選挙ではタイ国民党が第一党となり、チャチャイ党首が首相に就任した。チャチャイは軍人であったが退役して出馬している。1989年半ば以降、閣僚の汚職等により国民の批判が強くなり、さらに軍との対立が激化したため、チャチャイ首相が一旦辞任し、第二次チャチャイ内閣を発足させた。しかし軍との対立は収まらず、1991年2月無血クーデターが発生、同年3月アナン暫定内閣が発足する。
1992年、総選挙が行われ、連立工作をめぐる混乱に乗じて国軍司令官スチンダが組閣する。これに対して、野党、マスコミ等が批判、辞任要求が起こり、抗議活動が活発化し軍と衝突する。事態を憂慮した国王の調停により、同年5月スチンダ首相が辞任し、第2次アナン内閣が発足する。
同年9月、総選挙が行われ、第一党となった民主党のチュアン党首が首相に就任、連立内閣が発足した。
1994年11月、農地改革をめぐる汚職疑惑が発覚したことから内閣不信任案が提出された。首相は1995年5月下院を解散し、7月総選挙が行われた。総選挙の結果、タイ国民党が第一党となり、党首のバンハーンが首相となり連立内閣が発足した。

 

 

 

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