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海の作文

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「海と公害」
京都大学教育学部附属京都中学校一年 田村尚美
第30回中学生海の作文コンクール金賞(近畿海事広報協会主催)

 

人間が捨てる油や残った調味料の行き先とは?と聞かれたら海だと答える人が多いだろう。そしてまた、ゴミをうめるうめたて地はどこをうめてつくるか?と聞かれたら海をうめる。という。最近の海は人間の出すゴミや油で占領されつつある。
人間、地球上の生物は海からやってきたと言われている。生命の源、その海が人間の手によって汚されているというのは問題である。
日本人の食中にはほぼ毎日でてくる魚も海からとれたものである。その魚も人間の手でつくられた公害になやまされている。ゴミを飲みこんでしまって死んでしまった点もいる。ゴミがあるためにすみかがつくれないということもある。もしも海が心を持ち日があって話ができて人間と対話してみたら思いきり怒りをぶつけてくるだろう。それも想像できないほど強い怒りを。
海水浴に行った時気づかないだろうか。砂浜にちらかっているジュースの缶や花火の燃えかすを。花火の燃えかすだったら海面にもよくういている。それも自然におこったことではない。人間の責任である。
このように海はどんどんと汚されている。それも人間の手で。このままだと海はみるみるうちに汚れて魚は次々と死んで私達の食卓にはやがて魚がならばないということがおこるかもしれない。海の上を飛ぶ鳥も死んだ魚を食べて異変をおこすかも知れない。
今年は学校から臨海学舎として行った。なんでこんなに。と思う程多くのゴミが砂浜にちらばっている。発泡スチロール、空き缶、つりの道具の破片…。これは見てられないということで私達はそのゴミをみんなで拾い、先生方にほっていただいた穴にうめた。けれどもこれはなんとも皮肉だということがおこる。人間の捨てた物で人間がけがをする。私だけではなく他の人もだけれどつり道具の破片や割りばしをふんでしまったのだ。本当に皮肉なことだ。これに似たようなことで話は四十年程前にさかのぼる。
熊本県水俣湾でのある事件である。ある工場の流した排水の中に有機水銀が含まれていて魚がその排水で異変し、それを食べた人々が手足がしびれ、目や耳が不自由となりやがて死亡するという病気、水俣病である。これで千二百九十人の方が亡くなった。けれどもとをたどれば、魚、工場、人間であり最後に行きつくのはやはり人間なのである。
人間が海を汚せば汚す程その分の仕返しは返ってくる。全ては人間の手にかかっている。
この間も赤潮が発生したというニュースがあった。赤潮とは海水中に、微生物やけいそう類などが異常増殖して、海が赤かっ色などになる現象。漁業に被害を与える。これでたくさんの魚介類が死んでしまう。原因は排水による海の汚れである。でも漁業に大きな被害を与えるということだから迷惑なのは海だけでない。
海に浮いているゴミで一番多いのはプラスチックである。プラスチックは、船のスクリューなどにからみついて破壊したり、ウミガメがエサとまちがえて食べて死ぬ原因となったりしている。本当に海は人間の手で好きなようにされていると思う。油だって工場の排水だって海があるから流せるのだ。それでどれだけの生物が死んでいることか。人間の手で殺していてかわいそうも何も言えたもんじゃない。矛盾している。口では何とでもま言える。私達でも少しでも海を美しく守ろうという意識があるならばできることがある。池なんかは薬品でかためたり、それより実用的な油の始末の仕方は苛性ソーダという。石けんの材料と使用後の汚ない油とまぜて固めると、石けんとなる。私の家ではこうして油を流さないように努力している。海水浴に行っても空き缶はくずかごへ。たばこや花火のかすもくずかごへ。できるはずだ。海は汚すことは簡単だが美しくするのは難しい。けれどもこれだけは知っておかなくてはならない。海が汚れたら人間が痛い目に会うのだ。ということを。
海は今、どんどん汚染されつつある。そして深刻な問題となっている。海を守る手段はただ一つ。海を守る鍵は私達の手と考え方だ。排水を流すのも、ゴミを海にすてるのも人間の手である。でも守ることができるのも手だ。ゴミを拾うのも油を流さずに。石けんにするのも固めるのも手だ。この手が良い方へ行くか。愁い方へ行くかで海の運命は決まる。この私達の手が、一人一人が良い方へ向かえばいいなとしから思う。

 

 

 

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