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団での診療対象人員は約四〇〇名で、六ケ月間に及ぶ南極海という巌しい環境下での海上労働従事中に治療を要した総延患者数は四、五七〇名(母船内収容入院五名、内地送還一名)にのぼった。いずれの場合も、かぜ、胃腸障害などの内科的疾患が多くみられたが、作業中のケガ(重症なのは、クレーンよりの落下物による頭部外傷、高所よりの転落事故、刃物による指切断や、平首の動脈切断などの切傷、ピストンに手指をはさまれた挫滅創など)、アレルギーによる呼吸困難を伴う重症ショック、急性虫垂炎(俗に言う盲腸患者)、眼球に鉄屑が突き刺さった症例、多量の鼻出血患者などの救急症例にも遭遇した。内科的疾患といえども、放置しておけば(洋上で治療を受けられないと)、肺炎や吐血を伴う胃・十二指腸潰瘍などの重篤な状況になる可能性のある救急予備軍的な諸症状を訴えた患者もかなりの頻度で見られたことは、船上での適切な早期治療の必要性を痛感させられた。また、歩くことも咳をすることもできないほどの激痛を伴うギックリ腰、タラップを登れないほどの膝の半月板棚傷、手をあげることも握ることもできず夜も眠れぬほどの病みを伴う肩こりや異常高血圧、うみをもった歯痛など、陸上と同様な悩みを持つ準救急症例と言える患者も数多くみられた。
大規模な海難事故などを対象とした救急医療に対する諸問題の解決に努めることの重要性は十分認識しているつもりであるが、しかし、一般の海上勤務者の洋上・船上での発病、事故などの救急事態の発生に対して、ただ一人のドクターが個々の症例にいかに迅速かつ的確に対応、対処できるかは、筆者の経験からも正直言って並大抵のことではない。陸上では、数年前より、救命救急十という制度が誕生し、救急蘇生をはじめとする急を要する症例や事故に対して、その現場でいかに初療を施すかという教育(決して満足のいくものとはいえない気もするが)を受け、救急車に乗車勤務しているが、スピードを競える陸上ならいざ知らず、距離、スピード、受け入れ体制など、どれ一つをとっても陸上とは大違いの環境下にある海上での救急医療体制として、理想的にはやはり何と言ってても、現場に医療従事者(特にドクター)が常駐常在することであり、それが不可能な場合には、ドクター便乗のヘリコプターを、まず現場に派遣の上で初療を受けることを可能とするような体制こそが、海上救命救急の現状で考え得る第一歩の手段ではなかろうか。患者の側からみても、自分達のすぐ傍にドクターをはじめとする医療従事者が常駐していると思うことにより、言い知れぬ心の拠り所ができ、安心感が得られるにちがいない。要は、海上でも、陸と全く同様な病気、ケガ、事故が発生しているという事実からも海の上という特殊性を考慮しつつ教育訓練プログラムを組み、働く側にも海難救命士とかマリンドクターというような呼称なり資格を与え、このような事態に即応できるマンパワーの充実こそが、必死に働いている海上勤務者の心の安心感と身の安全が計れる唯一の道であると痛感している。

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