
『青年の家よ、こっちへおいで!』
日本青年団協議会 事務局長 佛木完
■青年活動の大切さを前提として
日本は世界有数の経済大国と言われていながら、私たちは日常生活において真の豊かさをどこまで享受しているのだろうか。特に、子供から青年に成長する過程で、私たちが社会の中で豊かに人間関係を編み、学び、成長していく条件は、まだまだ整備されてはいないようだ。
一つには、学校教育の競争原理の中で、真に学ぶ喜びや青年同士の連帯は阻害されている面がある。さらに、社会に出ても高密度で不規則な労働実態のなかで、青年は学び、成長するというよりも自己を摩耗している側面も強い。また、余暇の過ごし方もきわめて少数で個人的な範囲の中でまかなわれているのが実態である。
本来、人間が根本的に持っている「学び、成長する」喜びを青少年がどう確保するか、その条件は、労働と余暇の両面から、そして学校教育と社会教育の両面から整備され、保証されなければならない。
青年が地域においてさまざまな地域活動、文化・スポーツ活動、ボランティア活動、学習活動など集団活動に参加することは、青年自身にとって多くの友人を得ることをはじめ、共同で目標を達成していく連帯感や感動を経験し、社会性と人生観を確立することに大きな役割を果たしている。青年が学校教育と並行して、またそれを終えても、集団活動に参加できる条件が整備されていることが、たいへん重要になっているわけだ。
その一つの要素である「青年の家」が、その役割をどこまで果たしているのかが、いま大きく問われている。
私自身が青年活動の現場に身を置いてきた者の一人として、いわば青年の家は「身内」である。いつもお世話になりながら、言いたいこともいっぱいある。今回は、その言いたいことの方を書かせていただく。所長、職員の皆さん、どうか苦笑いしないで聞いてください。
■堅苦しさからの解放を
私も青年活動の現場で、よく青年の家を利用してきた。施設は多少古かろうが、食事があまりおいしいとは思えなくても、それはあまり気にならない。公立で料金が安いし、それは割り切ることができる。しかし、何とも気になるのが運営上での制約に関する居心地の悪さだ。
まず、入所式。担当の職員の方がやってきて挨拶をする。この挨拶もどこか説教臭い。先生が生徒に向かってしゃべっているようだ。
「今の青年はどうも自由気儘だ。ここではそんな日頃の生活を改め、きちんと研修と生活をしてほしい」……青年活動そのものは評価しようとするが、どうもこんなイメージが抜け切れない。
そして、生活上での注意の後に続く、ベッドでの寝方の説明。「ああ、きたか」と苦笑する。もう今はほとんどやらなくなったのかもしれないが、模型の人形とベッド一式を手にして説明されたこともあった。連れていった外国の青年
前ページ 目次へ 次ページ
|

|