海に魅せられて半世紀(XXXII)
略歴
1924年 福岡市に生まれる
1946年 東京帝国大学第二工学部物理工学科卒
1950年 東京大学理学部地質学科卒
1962年 東京大学海洋研究所教授
1968年 同所長
1984年 放送大学教授
東京大学名誉教授
1994年 放送大学客員教授現在に至る
宇宙開発委員会参与
科学技術庁参与
海洋科学技術センター評議員
奈須 紀幸 Noriyuki NASU
18. 昭和40年代後半(2)
?白嶺丸の建造と運航
前号で、海洋における地質調査および資源探査の必要性から、我が国としては初めての「地質調査船」の建造を通商産業省(以下、通産省と略称)鉱山石炭局が中心となって計画し、1971(昭和46)年4月より、「地質調査船建造委員会」(委員長・高木津東大名誉教授、漁船協会会長)が設置されて検討に入ったこと、早速、5月に入って、私が団長を仰せつかって、海外の海洋研究機関の研究船に重点を置いた視察団が派遣されたこと、この地質調査船の運航に関して、操船に携わる船員を国家公務員として純増することの困難さが判明して、運航は民間委託とする方針が固まり、その結果、翌昭和47年、船のオーナーは、官庁である地質調査所から通産省傘下の特種法人である「金属鉱物探鉱促進事業団」(以下、金探と略称)へと変更されたことを述べた。
以下、白嶺丸の建造と運航についての経過を続けさせて頂く。また、時代は昭和50年代前半に入るが、白嶺丸と密接な関係を持つ「第2白嶺丸」の建造の経過、さらに時代は現在に及ぶ白嶺丸、第2白嶺丸の運航実績についても事の序でに述べさせて頂く。
次に述べさせて頂きたいと考えている「国際深海掘削計画」なども、芽生えは昭和40年代後半であるが、現在にまで及んでいるので、次回以降2〜3の項目については、昭和40年代後半以降、とさせて頂く。
オーナーが金探と定まる前、通産大臣田中角栄氏は漁船協会に対し、地質調査船の仕様書作成の仕事を委託した。これを受けて漁船協会は高木会長の補佐機構として11名の委員よりなる「地質調査船仕様書作成委員会」を組織した。私も委員の1人として参加した。昭和46年11月から翌47年3月まで4回の会合を重ねて基本的な設計を終わった。
昭和47年、地質調査船のオーナーが金探と定まった段階で、金探では、池田誠一理事を本部長とする「地質調査船建造臨時本部」が組織された。
以後、白嶺丸に関しては、平塚保明理事長をトップに戴き、池田氏を担当理事とする態勢で建造・運航への作業が進行した。
この段階で金探として、1972(昭和47)年6月16日付で、「地質調査船建造委員会(委員長・高木津)」、「地質調査船運航委員会(委員長・奈須紀幸)」の2つの委員会を設置し、金探の内外の専門家を集めて調査船実現への努力を開始された。委員の数は前者が13名、後者が12名である。
この2つの委員会が、1974(昭和49)年3月31日、船が竣工するまで任務を全うした。途中、分科会なども設けて関与して項く人脈の層を厚くした。
地質調査船は進水の前に、船名を一般公募した。多数の応募があった。その中から「白嶺丸」という名が選ばれた。以後、本船は白嶺丸と呼ぶことにする。
白嶺丸の主要諸元と特種設備は最終的に以下のようにまとまった。
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