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シャンパンオペラ 『こうもり』の見どころ聞きどころ

寺崎裕則

 

『こうもり』誕生以前のウィーン
ウィンナ・オペレッタの“黄金時代”を代表する、ヨハン・シュトラウス(1825−1899)の『こうもり』は、今日いまだにこれを凌駕するもののないオペレッタの最高峰である。『こうもり』には、オペレッタの魅力と魔力、エンターテインメントのすべてが入っている。
オペレッタは1855年、ジャック・オッフェンバックが創始した音楽喜劇で、心浮き立つ夢のような音楽にのり、その時代を鏡のように映しながら、男と女が恋し、もつれ、とどのつまりはハッピー・エンドという、一見、他愛のない大人のメルヒェンだ。だが、そのメルヒェンが真実の世界に変わった時、オペレッタはオペラよりも、シンフォニーよりも、芝居よりも力強い魅力を発揮する。
『こうもり』は決して一朝一夕に生まれたものではなく、ウィーンという昔からの音楽劇愛好の風土と、長い歴史が、ワルツ王ヨハン・シュトラウスを生み、『こうもり』という永遠に枯れることのないオペレッタの名花を咲かせたのだ。
スッペ、ミレッカー、そしてシュトラウスがウィンナ・オペレッタを創り出す前、ウィーンの人々はジングシュピールが大好きだった。ジングシュピールとは、ウィーンやチロル地方で歌い踊られたメヌエットや速い踊りのレントラーや民謡を使って、オーストリアの美しい大自然を背景に、身近な題材を芝居にし、機智と笑いと洒落と皮肉と、ソフトな批評精神がいっぱい詰まった“歌入り芝居”である。その根底には、即興と道化という、17世紀なかばのイタリアのコンメディア・デッラルテ(仮面即興劇)の影響を色濃く残していた。こうしたジングシュピールはウィーンの人々の好み“ウィーン気質”にぴったりだった。
このジングシュピールの源流が、ウィンナ・オペレッタの底に脈々と流れているのである。
モーツァルトが『魔笛』でジングシュピールの最高峰を築いた後、19世紀になると停滞し、それにとって代わったウィーン・フォルクステアター(ウィーン民衆劇)が勃興し、ウィンナ・オペレッタ誕生の橋渡しという重要な役割を果たした。
ウィーン・フォルクステアターはライムントとネストロイに代表される。ライムントは夢幻劇を得意とし、彼の芝居には、コンメディア・デッラルテの即興と道化、ジングシュピールの歌がまじり合い、明るい機智と笑いとメランコリーと暖かい皮肉とくすぐる風刺とやさしさと人の良いいたずらっぽさと夢と空想があった。そして何よりも詩人だった。それが当時の観客の好みにぴったりだった。
だが、時代は急速に変る。ナポレオンの失脚、1814年のメッテルニッヒによるウィーン会議、それによる経済変動、束の間の古き佳きビーダーマイヤー時代、1848年、パリから飛び火したウィーン革命。モーツァルトやライムントによって花開いた浪漫の時代は急速に忘れられ、産業革命による工業の時代、ブルジョアジーの時代となった。
その時、ライムントは人気を失い、ネストロイが時代の寵児となる。ネストロイは詩人であるより現実家であり、鋭い皮肉と強烈な風刺、攻撃的なユーモアを武器にあらゆるものを笑いのめした。グロテスクといってもいい彼の笑いが既成の価値観をひっくり返し観客に全く新しい視点から物を見せた。
それが時代の流れにぴったりと合った。観客は狂信的にネストロイを支持した。
そのネストロイが、フランス、ナポレオン3世の第二帝政時代の寵児、オペレッタの創始者、オッフェンバックの『提灯結婚』をウィーンに紹介した。二人の資質は実によく合っていた。カール座での初演は信じられない位の大ヒットとなった。オッフェンバックのオペレッタの中にネストロイと同様、いやそれ以上に当時のウィー

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