
だが、これは黙って聞き流すべき話ではないと思ったので、敢えて割って入ることにした。「一方で『中国の脅威』については自己充足的予言になるから言及するなといい、他方で『日本の脅威』については言及しないのは危険だというのでは、ダブルスタンダードになるのではないか」と指摘したのである。「われわれは必要とあれば何回でも詫びる用意はあるが、まず詫びないと、どこでも何もいう資格がないという論法なら・それは承服できない」と反論したのである。 その教授からは、その場では何の反論も出なかったが、後刻あるマレイシア人からその教授が「日本人からあんな反論が出るとはまったく思っていなかった。これまで会った日本人は皆あの一言ですぐ謝ったんだけれどもなあ」といっていたよ、という話を聞いた。 会議最終目の総括セッションでは、予想外のことであったが、つきのような発言が飛び出してきた。 「過去の過ちについて、ある国民全体を責めつづけるのは間違っている。責められるべきなのは、前の世代のあるグループの人々である。日本はわれわれがオランダの植民地支配から解放されるのを助けてくれた」(インドネシアのスジョノ・ジワンドノ戦略国際問題研究センター理事) 「イギリス人やオランダ人はけっして謝罪しない。従軍慰安婦はたしかに存在したが、わたしはかれらが強制されてそこにいたわけではないことを知っている」(マレイシアのガザリ・シャフィ元外相)。 もちろん、そういってもらえたからといって、われわれは免罪符をもらったような気になってはなるまい。歴史の過去において、われわれの祖先は確かに過ちを犯したのであり、そのことを教訓として生きてゆくことはわれわれにとって当然のことである。しかし、シンガポールの大学教授から一喝されたからといって、何をいわれてもそのまま無批判に「ご無理、ごもっとも」というしか、自己表現の方法をもたなかったこれまでのわれわれの姿もまた反省しなければならないであろう。それは決して真の相互理解や相互信頼を生み出す道ではない。本当の知的国際交流とはいうべきことをいい合って、そこからお互いの真の姿を理解しあうことなのではあるまいか。自分の考え方が絶対的に正しく、相手のいうことはすべて間違っているというのが前提であるならば、国際交流は無意味である。これまでの日本人の国際交流には、お客様を迎えてよい子ぶりを示すような交流に終始していたようなところがあった気がしてならない。とはいえ、国際的基準において説得力のある主張でなければ、いかなる主張も無意味であることは、いうまでもない真実である。
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