「海の日」制定に賛成ということでまとめられた。
このあたりの動向をみながら十一月二十九日、連立政権与党の政策調整会議、院内総務会で「海の日」制定の意思決定が行われた。会期の延長が行われた十二月六日に、衆議院内閣委員会において、(自)加藤卓二、(社)山元勉、(日)江田五月の与野党三議員共同提議による田中恒利内閣委員長提案(内閣委員会提案)という形で「海の日」制定を内容とする祝日法改正案が提案され、可決された。待望の議決である。
しかし、残念ながら、会期内では参議院で審議するだけの時間がとれないということで参議院へは送付されない。従って衆議院本会議にもかけられないことになり、継続審査案件として、十二月九日に会期が終了した。
平成七年一月二十日に開会した通常国会においては、一月十七日に発生した阪神・淡路大地震のため、祝いごとを内容とする祝日法改正の動きは、停滞することとなった。最も大きな被害を受けた都市が港町神戸という最も海とのかかわりの深い都市であることが問題を微妙なものとした。確かに被災地の惨状は、当初、「海の日」どころではないという状況のように見受けられた。なすすべもないまま一カ月が過ぎた。
しかし、被災地だから少しは明るいニュースも必要なのではないかという議論が出るようになり、例年甲子園球場で行われる高校野球大会も、節度をもってという条件付きながら挙行されることが決まった。
そのような雰囲気の中で、「海の日」についても、被災地の意向を打診しようということになった。その結果「海の日」制定は、前向きに受け取られる見通しがついた。一方で、被災して道路がほとんど利用できなくなった神戸で、外部から救援隊および救援物資が最初に届いたのは海路によるものであり、ある意味では、大震災は「海の日」の重要性を実証したことにもなった。国民会議も、神戸在住被災者で副会長の佐藤國吉・日本内航海運組合総連合会副会長を中心に、与党首脳に情況説明を行った。
このような事情のなかで、連立与党首脳を中心に検討が進められ、ついに二月二十一日の与党国対委員長会議で祝日法改正案を早期に成立させようということになった。
国会は、会期ごとに独立しているので、再び衆議院内閣委員会の議決から行われることとなり、二月二十四日同委員会可決、週末をはさんで同月二十七日衆議院本会議で可決され直ちに参議院に送付された。参議院でも、内容の審議は既に十分行われていたので、翌日の二十八日に参議院文教委員会、さらに同日の参議院本会議と超スピードで可決され、ここに、国民の祝日「海の日」制定を内容とする祝日法改正案が成立するに至った。なお、改正法の施行日は、平成八年一月一日とされた。
つまり、第一回の「海の日」は、平成七年の七月二十日ではなく、翌八年(今年一の七月二十日である。国民の祝日の変更は、学校のカリキュラム作成や教科内容に影響することなどを考慮して、円滑な実施のためには、十分期間をとる必要があると判断されたためである。