絵で見る日本船史

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第三図南丸(となんまるNO.3)
日本に於ける南氷洋捕鯨の嚆矢は昭和九年十二月二四日に、日本水産の前身、日本捕鯨会社が諸威の捕鯨母船アンタークチック号を付属捕鯨船五隻と共に、一括して約九五万円で購入し日本へ回航の途中、諸威人技師など九名の実地指導の下、南氷洋に出漁し五三日間の試験操業を行ない、好成果をあげ日本に回航した事に始まる。
翌昭和十年三月二一日神戸港に到着し鯨油、鯨肉の揚荷後、大阪鉄工所(後の日立造船)桜島工場で改装工事を施行したが、神戸入港直前の三月十二日、航海途上の南支那海で図南丸と命名された。
翌十一年九月に日本捕鯨は共同漁業に合併となり、更に翌十二年三月社名を日本水産と改称し、本格的な捕鯨母船二隻の造船計画が立てられ、図南丸改装で評価を得た大阪鉄工所に一括発注された。
昭和十二年五月十二日に第一船第二図南丸が進水し、同じ船台で続く第二船が起工され、翌十三年五月一日進水式で、第三図南丸と名付けられ九月二三日に完成、二隻とも政府の造船資金低金利貸付制度の適用を受けて建造された。
この二隻の設計要目は全く同じであったが、第三図南丸は総毛数で約五〇屯、載貨重量で約九戸屯少なく、一九二一〇総屯、二二〇六五重量屯、主機は排気タービン付三連成汽機二基二軸で八二〇〇馬力、速力一四・一節、全長一六三・一米、幅二二・六、深一七・三で、完成後直ちに南氷洋に出漁翌年四月からの漁閑期には、北米加州・内地の石油輸送に就航したが、昭和十五年度以降の南氷洋の捕鯨出漁は国際情勢悪化の為中止となり、専ら北米から内地向けの海軍用重油輸送に当っていた。
翌十六年十一月八日太平洋戦争開戦一か月前に海軍徴傭船となり、給油兼輸送船に改装され海軍輸送船北海丸、雲洋丸等と共に、更に陸軍輸送船香取丸、日蘭丸等五隻計十隻が十二月初句仏印カムラン湾に集結、旗艦由良の第十二駆逐艦隊の護衛で十三日に出撃した。
一路南下して東行、十五日夜半ボルネオのミリ、セリア、ブルネイを攻略、続く二三日にはクチン進攻を果たしボルネオ西岸の上陸作戦を成功させたが、その蔭には輸送船香取丸、日吉丸、北海丸、雲洋丸の四隻が沈没、第三図南丸も被爆中破となり、更に海軍艦艇三隻沈没の貴重な犠牲を出した。
第三図南丸はその後内地で入渠修理工事を施工、完成後は内地と南洋基地問の軍事輸送に従事していたが、昭和十八年七月二四日、トラック島西方洋上に於て、米潜ティノーサ号の餌食となり両舷に合計十本の魚雷が命中したが幸運にも沈没せず、内不発魚雷四本が突き刺さったまま、トラック基地に入港し修理工事に着手した。
その後工事途中の翌昭和十九年二月十七日、不幸にも米海軍機動部隊のトラック大空襲に遭遇し、度重なる米軍機の波状攻撃で満身創痍となり、遂に二〇日未明、巨体は静かにトラック港内の四〇米の海底深く沈没したのである。
戦後となり昭和二五年GHQの本船引揚許可を得た日本水産では、播磨造船所に依頼し救難隊一六七名を現地に派遣、同年十月二一日から作業を開始して翌二六年三月三日浮揚に成功、四月十五日相生工場に曳航して修理に着手した。
未曾有の難工事を僅か半年間で完成、十月十七日図南丸と改名の上、再び南氷洋捕鯨に参加したがこの腫大型船の引揚作業と、修理地迄の遠路曳航など特筆に値する記録は、業界注目の的となった。
戦前戦後を通じ南氷洋捕鯨船団に通算十八回参加の記録をつくり、水産国日本の名に恥じない立派な業績を残したが、寄る年波には勝てず昭和四六年三月、船齢三三歳のとき広島県呉市の対岸、江田島で解体され波瀾に満ちた一生を惜しまれながら終ったのである。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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