絵で見る日本船史

237 呉竹丸(くれたけまる)
日本郵船では昭和十二年七月に勃発した北支事変の関連から、同社の系列会社・近海郵船の合併を決定し昭和十四年六月に至り、同年九月八日付で近海郵船の経ての航権と、合計四二隻一四万三千九百四五総屯に及ぶ船隊を吸収し、船列に加えたのである。
丁度その頃二隻の中型鋼材輸送船が長崎港口香焼島の川南造船所で建造され、若竹丸、呉竹丸と命名されていた。

 

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この二隻の姉妹船は同造船所が昭和十二年二月から、六年間に建造した同型船三七隻中の第三番、第七番船に当たり、九州八幡から東京港に鉄鋼製品を輸送する目的の単甲板船で、頑丈で広大な艙口と強力な荷役装置を備えていた。
船橋は一番艙の後方にあり船尾機関室との間には、長尺鋼材用の二番艙が配置された二船艙の鋼製貨物船で、総屯数一九二四、重量屯数二八五一の船尾型船である。
主機は三連成汽機一五〇二馬力一基で一三・四節、全長八二・三米、幅一二・二深六・二先年六月建造の若竹丸と共に利用価値のある中型沿海航路船であった。
この型の最初の船は日之出汽船の八幡丸が日本鋼管浅野造船所で建造され同型船が十隻あり、更に同一設計で大阪鉄工所でも六隻、川南工業の三七隻、合計五三隻が戦前に建造され、太平洋戦争中には戦時標準船一D型として、合計二二隻が竣工しているのである。
呉竹丸は昭和十四年一月完成後八幅・東京間の鋼材輸送に専念、日本郵船に合併後も引続き同航路の反復就航に従事、同十七年五月以降は船舶運営会所属となり活躍していたが、同年九月十一日横浜から若松向け航海中、大王埼沖で鏑木汽船の常盤丸と衝突事故を起こしたが大事には至らなかった。
その後同十九年一月三十一日神戸から横浜向け航海中、遠州灘掛塚灯台沖で米潜水艦の雷撃を船尾に受けたが、幸運にも不発魚雷のため一命をとりとめたのである。
呉竹丸は翌二十年一月十二日に陸軍に徴傭され、横浜から精米と軍用大発二隻、舟艇十六隻を搭載して父島向け単独航海を余儀なくされ南下中の二月七日早朝、伊豆諸島須美寿島北方約二〇浬の地点で米潜水店の雷撃を受けた。
一番艙右舷に命中し、艙口蓋は吹き飛び積荷の米も散乱したが、破孔が比較的上部のため浸水が少なく、乗組員の必死の防水作業で沈没は免れ八丈島に仮泊して、応急修理を行い横浜に帰港して浅野造船所で修理工事を実施した。
当時米空軍機B29による国内の主要都市猛爆が繰りひろげられ、硫黄島も玉砕し沖縄決戦が開始された頃で、三月二十八日修理工事を完了した呉竹丸は早速宇品、新潟を経由して小樽に回航、第五船舶輸送司令部に配属され千島列島の残存部隊撤収作戦に参加した。
昭和二十年五月二十六日呉竹丸は幌莚島残存陸海軍部隊五八○名と便乗者二三名、若干の軍用貨物を搭載し柏原港を出港、僚船天領丸、春日山丸と三隻船団で海防艦占守、八丈及び百十二号、特務艦白崎の四隻護衛の下、視界僅かに十米の演義のオホーツク海を横断して小樽に向ったのである。
三日後の五月二十九日は連日の霧は晴れたが寒気は相変らずの酷しさでようやく宗谷海峡に差しかかった午後八時五五分、樺太沿岸沖約五〇浬で呉竹丸は一番艙右舷に米潜スターレット号の魚雷が命中徐々に浸水、同時に僚船天領丸もスターレットの雷撃で沈没した。
その後呉竹丸は二番艙との隔壁にも亀裂が生じ、懸命な防水作業の効もなく約九時間後の翌三十日午前六時に沈没、犠牲者陸海軍々人約六〇名と乗組員六名が、僅か六歳の呉竹丸と運命を共にした。
なお姉妹船若竹丸も陸軍徴傭船として活躍中、呉竹丸より七か月早く台湾海峡で被雷沈没した。
松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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