歴史のおはなし
秀吉、関門海峡で一命を拾う
文禄元(一五九二)年七月二十一日のことです。
肥前国名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町)に居て、高麗国(朝鮮)に渡海する将兵らを督励していた秀吉の許に、大坂から急ぎの使者が来ました。使者が差し出した書状には、秀吉の母・なか(大政所)の危篤のことが記されていました。
「母様が死に直面されておられる。母様が……」
戦国武将きっての母思い、恐母家といわれた秀吉は、
「急ぎ早船を出せ。大坂へ立ち戻る。」
と、命じると、翌七月二十二日の早朝、名護屋城下を出航して、東へと大坂をめざしました。
大坂へと急ぐ秀吉の御座船の船奉行(船頭)は、細川忠興配下の明石与次兵衛でした。与次兵衛は、その姓が示していますように、播磨国明石(兵庫県明石市)の出身です。
御座船が関門海峡の西の入り口(大瀬戸)を通過しようとした前後の時です。 “戸ノ上下ろし”と船人たちが警戒する激しい突風と、三角波を立てた潮流とで、見え隠れしていた岩礁に御座船が激突しました。
大瀬戸は、長門国彦島(下関市彦島)の弟子待と豊前国柳ヶ浦(門司区大里)との間の海峡をいいます。
大瀬戸には、「篠瀬」と呼ぶ岩礁がありました。その岩礁は、干潮時には海面上に大きな姿を現しますが、満潮時には海面下に隠れ、あるいは波の下で見え隠れしていましたので、地元の漁師たちが恐れ用心して、「死ノ瀬」とも呼んでいた岩礁でした。
勿論、秀吉の御座船の船奉行を命じられたほどの与次兵衛ですから、そのことは“百も承知”で、船が大瀬戸に入る前や入って後は、絶えず操船に神経を使っていたのでした。
「瀬は波で見え隠れしている。潮の流れは東。潮流に乗って航行する。帆は、万一に備えて降ろすべし。」
「船を左に寄せよ。右は浜方に寄りすぎぞ。右の水夫とも、力入れて漕げや!」
与次兵衛の細心の指示も、突然の自然のいたずらの前には無力でした。
篠瀬に御座船が激突した不慮不測の事故は、大坂へ急ぐ秀吉にとって大災難事でしたが、当の与次兵衛にとっては、秀吉以上に不幸不運の大災難事となりました。
それでも、秀吉は幸運でした。
秀吉は大破した船から海に投げ出されはしましたが、幸いなことに、潮流が秀吉の身体を篠瀬の端に押し上げたのです。これに加えて、毛利秀元(後の萩藩の支藩・長府初代藩主。下関市長府)の船が後方から追尾していたのです。
秀元に従って、遠眼鏡(長筒型の望遠鏡)で秀吉の御座船を見守っていた伊秩安房守が、
「殿、上様、ご遭難にあわれ、かの岩礁の上におわします。急ぎご救助を。」
「太閤殿下が危うい、急げ!」
裸同然の姿で、帯を結んだ腰に二本の刀を差して岩礁に立っている秀吉を救助した秀元は、秀吉の指示で、船を柳ヶ浦の浜に着けると、いく人かの里人たちに命じて、急ぎ湯をわかせて、風呂の支度をさせました。
シーボルトが描いた「与次兵衛ケ瀬」の石柱
(シーボルト「江戸参府紀行(東洋文庫刊)」から
湯浴みして気が落ち着いてきた秀吉に、怒りがこみ上げてきました。
「この身を危うくしたこと、許せぬ。秀元、かの者の首をはねさせよ。」
武士にとって切腹は名誉、斬首は不名誉極まる処分で、これは武士以外の名ある庶民にとっても同じことでした。
秀元は、与次兵衛が秀吉恩顧の大名・細川忠興配下の船奉行でありますから、「切腹のご沙汰を」と、秀吉に懇願しました。秀元もまた、秀吉が絶大な信頼を置く大々名の毛利輝元の身内でしたから、秀吉は秀元の言を聞き入れました。
明石与次兵衛は責任をとって、柳ヶ浦の浜で果てました。
柳ヶ浦の里人たちは与次兵衛の不運を哀れみ、その死に同情して、与次兵衛の遺体を浜に手厚く葬りました。そして、目印に一本の松の木を植えました。その松は、誰言うとなく、「明石松」の名で呼ばれるようになりました。そして、その松はまた、大瀬戸を航行する船頭たちに安全を呼びかける目印になっていきました。
一方、秀吉の命を危うくした篠瀬は、これも誰言うとなく、柳ヶ浦の里人や船頭たちの間で「与次兵衛ヶ瀬」と名付けられ、やがて、「篠瀬」の呼び名が消えていきました。
慶長五(一六〇〇)年、毛利勝信・黒田孝高に替って豊前の国主(国持大名)となった細川忠興は、この岩礁の上に石柱を建て、航行安全の目印としました。
石柱はその後も、嵐や暴風雨、海の大時化や船の衝突などで度々流出したり、倒されたりしました。
文政九(一八二六)年、長崎の出島に入国したドイツ人医師・シーボルトは江戸の将軍に拝謁するために関門海峡を赤間関(下関市)へと渡海しました。彼は、江戸と長崎を往復した旅で見聞したことを日記「江戸参府紀行(東洋文庫刊)」に著していますが、その中に、渡海の途中でスケッチした与次兵衛塔の絵を載せています。
シーボルトが見た石柱は、文政十一(一八二八)年に、嵐にあおられた潮流によって海中に流されました。
この後の文政年間(一八一八〜一八三〇年)に柳ヶ浦一帯の里人たちの手によって、松茸型の石柱が建てられました。
この石柱は、大正四、五(一九一五、一六)年頃、日本海軍が艦艇船舶の安全航行のために岩礁を爆破する際に取り除かれて、下関市に駐留の日本海軍が引き取り、後、海中に投棄しました。
太平洋敗戦後の昭和二十九(一九六四)年、石柱は海底から引き上げられ、今は、和布利公園入り口近くの一角に建って、関門海峡を見つめています。
著者 田郷利雄の「豊臣秀吉と北九州の戦国武将たち」からの抜粋
(株)福田印刷刊
和布刈公園(門司区)の上り車道入口近くに建つ与次兵衛塔
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