第6章 町づくりの提言
第1節 油津の町並みの特徴と評価
広渡川は少し上流で飫肥城下町の酒谷川と合流し、水量が多い。その酒谷川は城下町の外濠のごとく三方をとり囲んでいる。外敵を防ぐ濠としての役目だけではなく、交通手段としても重要であった。飫肥杉の運搬に用いられた。いかだに組んだ飫肥杉は酒谷川を通り、広渡川へと流れ、海へ出た。その後、いかだは外海に出て貿易港の油津に入り、そこから船舶・建築の用材として、主に関西方面へ運ばれていた。しかし、一途に荒波の外海へ出ることを避けるために、堀川運河を貞享3年(1686)に完成させることになった。尾根を切り開かなければならない難工事であったにちがいない。それにもかかわらず堀川運河が竣工した。その結果、積出港として油津港が栄え、人家が増え、寺院と神社が立ち並ぶことになった。その母なる運河が今、その任務を終えて、新たなる展開を始めようとしている。
以上の歴史的背景から、重要な2点を指摘できる。その第1は油津港町の発展が堀川運河と港を基礎としているということ、つまり、油津港町と堀川運河と港は平行に並ぶということではなく、垂直軸の如く、堀川運河と港の上に油津港町が成立したということである。次の点は堀川運河を媒介として飫肥城下町と連続しているということである。この2点が町づくりには重要な視点となる。
それでは油津の町並みの特徴をこれら2点を視野に入れてみると、堀川運河で運ばれた木材が積出し港としての油津港から送り出される。更に港は貿易港から漁港への展開が大正・昭和初期になされ、貿易港と漁港は平行して油津の町並みをつくりあげたといえる。それ故、都市住宅ともいえる町家が軒を並べ、間口は2間から5間以上に及ぶ様々な大きさを示した(第3章 第1節表10〜13)。更に屋根形式は切妻造りが多いものの入母屋造もあるし、少数であるにしても寄棟造もある。その入り方に屋根の棟と平行に入る妻入(つまいり)と棟と直角に入る平入(ひらいり)とがある。それらはほぼ半数ずつで、明治・大正・昭和初期とほぼ同数である(第3章 第1節表6〜9)。また、前方(道路側)に接客空間の座敷を設ける場合と、奥まった位置に設ける場合と共に現存し、年代による差もあまりうかがわれない(第3章 第1節表2〜5)。したがって、油津の町家の形態を特定できない。このことは油津の町家がいかに種々様々の形態をしているかを示していることになる。町家による町並みとしての統一感はあるもののバラエティーに富んでいることが特徴としてあげられる。それらの町家はそのまま野外博物館である。本物の町家が134棟実在している。その134棟のうち、油津!丁目に全体の30%が存在する。更にこの油津1丁目に2丁目の一部を加えると、もっと明確になる。それは、間口がそれ程大きくない3間半が最も多いものの、他の地域に較べて間口が広いということである。したがって比較的広い敷地に問口の広い町家が立てられていたことが分かる。その範囲は東西通りの上町通り・仲町通り・下町通りで、これらが油津の核になっている。この核の周囲には比較的間口の狭い町家ノド並ぶ。つまり、その北側、西側は堀川を越えた西町、束側は尾根の麓あたり、南側は埋め立て地に立つ町家群である。この油津で最も主要な道が、下町通りで、そこでは上京屋(河野家住宅)と下京屋(渡辺家住宅)が向い合っていた。その北側の伸町通りはレンガ倉庫が立ち、往来の激しい流通の通りであった。更に北側の上町通りは、鈴木旅館が面し、下町通りに次ぐ街路であった。その外の南北通りの国道220号線は港と陸地を結ぶ主要道路であった。道路拡張が行われ、現在車の往来が激しいものの、木造3階建の杉村金物店や、満尾書店の間口7ド広い。これらの東西街路3通りと南北街路1通りが特に重要であった。と判断しうる理由は町家の遺構からである。東西街路は堀川運河と陸地を結ぶ路である。南北街路は先に述べた通り、港と陸を結ぶ路である。これらの歴史の道と町家の遺構がうまく一致して、見事な景観をつくっている。特に、下町通りと南北街路(国道220号線)の西側とは油津の顔であり目玉である。更に道筋として加えるならば、材木町から吾平津神社前を通り、堀川橋を渡って、上町通りを通って、尾根の麓を東へ通り、下東児童遊園までの道がある。これらの道の両側にいろいろな形態をした町家が並び、実に見事であり、高い評価をうけるであろう。
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