日本財団 図書館


 

第2節 生活環境としての景観

 

?「景観」というもの
私たちは、じつは景観の中で生きている。景観の正体は、生活をとりまくすべての目に入る情景、すなわち視空間である。したがって、それは人々に見えることが必要な条件である。見えなければ景観になりえない。
その意味で、景観は常に人間のまわりにあって基本的な環境であるといって良い。目の健康な者は、生まれてずっと景観の中で暮らしており、空気のように存在する。ゆえに、その扱いかたを真剣に検討することをしてこなかった。
まったく学習しなかったわけではない。「景」の字が示す「景色」や「眺め」などが時として人間に心地よい感情を呼び起こすことを経験的に知っている。しかしながらこうした景観は手を加えて調整する対象としてではなく、人間の作意の範囲外で形成されたもので制御の範囲をこえていると考えるのが普通であった。そこで対象を限定してその善し悪しや、好き嫌いを楽しんできた。書画・陶芸・衣服。園芸(特に園芸・盆栽などの観賞園芸)などがそうした対象の例である。
自然界に手を下すことには考えも及ばなかったが、美しさや心地よさを認める感受性が、自分の領分でそれを模倣して楽しむことを発見した。東洋において「庭園」を作ることが、自然界の模倣であることは明らかである。「自然景観」を人工的に作り、調整して望むものに近づける。私たちは、自然の美しさを愛でる感受性を豊かに持っていると考えて良い。ただ、限定された対象の善し悪しを議論することは当然であったが、空気の善し悪しを環境の問題として議論することに得意でなかったように、普遍的な生活環境としての景観の善し悪しについて議論し、検討を加えることに殆ど経験を積んで来なかったのである。

 

現代都市景観
最も身近で日常的な視環境について、その扱いがうまくない。特に、本能的に群れ住んで出来上がる聚落(集落・都市)については殆どその技術を磨いてこなかった。全くないわけではない。封建支配者や国家権力がその依拠する都市の体裁をそれに見合うように、圧倒的・威圧的・抑制的につくりあげることはあったが、それは美しさや落ちつきや心地よさを主題として行ったものではなかった。
現代都市は様々なもの・様々な主体が作り上げている。もちろん建造物もだが、道路・電柱・看板・自転車・自動車など、こまかく数え上げればきりがない。それらにはめいめいの目的や機能があり、役割を果たすべく存在する。それぞれは、ほとんどが権利関係の異なる主体によって作られ、選ばれて都市の中に存在する。そして、それらは互いに調整されて存在していることが無いといって良い。指揮者のいない楽団である。そのツケが今まで尾を引いている。現代でもなお、どのように都市を扱っていいのかわからないでいるのである。
数ある色から特定の色を選んだとしよう。自分の好みでそれに決めつけていいだろうか。ほかに適切な色は存在しなかっただろうか。現代建築や都市は、こうした決断を次々にこなしてゆかなければならない。そしてその決断には完壁な解がないのである。現代は、こうした不安定な将来に向かっている。
こうしたおぼつかない状態で、私たちは自身の住む都市をどのように扱ったら良いのだろうか。
そんなときに思い浮かぶのが既に存在して久しく、高い評価の定まった景観である。すでに歴史的に存在している空間と、その景観が道しるべにならないか。
このような空間とその景観を私たちは歴史的空間と歴史的景観と呼んでいる。現代の素材や技術ではもはや創れない空間である。私たちはそんな空間のなかに、現代に参考になる理念や手法を探しうるかも知れないと期待している。
住めば都という。人がその土地に愛着を持つのはその町に帰属する意識を持つからである。自分とその住む土地や町とのアイデンティティが生まれるからだと言う。帰属意識や一体感や誇りを抱くためにはその都市に固有の歴史や由来が存在する必要がある。私たちはルーツを求めるのであり、他と全く同じではない、とする独自性を求める。それを保障するもののひとつが歴史である。そして歴史的空間は歴史を感じるための格好のものなのである。

 

本調査報告書は、油津の持つ歴史的空間や建造物についてその存在と価値を見極めることによって次なる具体的行動に先だつ資料となることを願って作成されたものである。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION