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肩にかけ右手に金剛杆をとっており、ここでは仏教の執金剛神(ヴァジュラハーニ)として表現されている。また、豊穣の女神像もアカンサスの葉で飾られ葡萄などの果物を盛ったコルヌ・コピア(豊穣の角西方の諸女神の持物)を持ち身には胸や乳首まで透けて見える薄衣を撮っており、おそらく仏教の鬼子母神(ハーリーティー詞梨帝母)の類に属するものであろう。これらはガンダーラ彫刻にも頻繁に見られ、クシャン朝のコインに刻まれたイラン系のウルスラグナ神やアルドクシュー女神またはナナイア女神と習合した可能性もある。その意味ではハッダの仏像はギリシア・ローマ・イラン・インドなど諸文化の融合の有様を端的に物語ってくれる。
さて、問題の地母神像[図?]は上半身のみ表現された高さ二六センチ程のストゥコ像で両手に蓮華で表された三つの法輪を捧げている。前記した「降魔」の場面で登場するガンダーラ仏伝浮彫の地天像とよく同定されるが、ここでは法輪が三宝を象徴しているため、釈迦の鹿野苑での初転法輪の場面に表される「三宝礼拝」に比定される可能性もある。実際、カルカッタ・インド博物館蔵の「三宝礼拝」浮彫ではコリント式の柱頭上の地母神像が三法輪を捧げている[注?])いずれにせよ、地母神が仏法の守護女神の役割りを志向しているようで、法輪を毘沙門天にかえれば、まさに兜跋毘沙門天像の姿に他ならない。地母神像自体も髪型や面相、服装、両乳が盛り上がった胸の表現などにヘレニズム・ローマ的要素がうかがえ、コンヤ考古学博物館のキュベレ像とも共通するイメージが感じられる。この像は地母神=地天女と毘沙門天が結合する一段階手前の状況を呈しているのではないか。いよいよ毘沙門天の登場が待たれるのである。

昆沙門天の独立

前回、私は兜跋毘沙門天の起源をガンダーラ仏伝浮彫の「四大王捧鉢」や「出家踰城」の場面に登場する毘沙門人像に求める宮治昭氏や田辺勝美氏の意見を紹介した[注?]。しかし、両氏が指摘したガンダーラ仏伝浮彫の毘沙門人像は地天女に捧げられたトバツ形を示しているわけではない。正確には、インドのクベーラ・ヤクシャを出自とする多聞天が仏教に取り込まれ四天王の一員となったが、ガンダーラ仏伝浮彫のそれらの場面では多聞天像日毘沙門天像が四天王像の中で独立化するか、または単独で表現されただけで、その毘沙門天像の中の特殊な一タイプが中国や日本に残る兜跋毘沙門天像の特徴の一部の起源になったと、言うことである。けれども、兜跋毘沙門天像にとってこの独立化と特殊な一タイプが非常に重要なので、今何は最後にその状況を振り返ってみたい。
「四天王捧鉢」は、釈迦が成道後二人の商人から蜜の入った米団子を授かり、それを受ける鉢がないので四天王が黄金の鉢を差し出すが、釈迦は出家には相応しくないと拒否し最後に石の鉢を受け取るという仏伝場面である。ここでは釈迦が四天王から石の鉢を受け取る際、一人だけに貰うのは不平等だとし、毘沙門天から順に受け取った四個の鉢を一つに合わせてしまったという逸話が伝わる。一見、四天王は平等に扱われているようであるが、ガンダーラ仏伝浮彫の中には、例えば日本個人蔵の「四天王捧鉢」(図?)の釈迦の右横に表された、長袖の上着にイラン風のマントを纏いズボンと脚絆をつけ沓を履いた毘沙門天像のように、通有のインド貴人の姿をした他の四天王と異なる服装のものがある。この服装は、当時ガンダーラを支配したイラン系クシャン族の王侯の服装で、しかも頭飾には一対の鳥の翼を付けている。ガンダーラ仏伝浮彫の数ある「四天王捧鉢」の中でこのような服装をした毘沙門天が出現するのはどうやら三、四世紀のものらしく、この時期から

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?日本個人蔵
「四天王棒鉢」浮彫

 

 

 

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