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た。一九五五年、ヤパ・ロージョはひそかに家族をミャンマーに逃がし、やがて自らも昆明から姿を消したのだった。
ヤパ・ロージョの教会はその後も残りつづけ苛酷な運命に絶えつづけてきた。一九八七年には雲南省政府の重要文化財といったものに指定されている。
ヤバ・ロージョのことを覚えている七十七才のナミさんは「よくおぼえているよ、昨年あの人が来てくれた、涙がとまらなかったね、私は、もう四十年以上もこの教会を守ってきたんだ」という。澄んだ知的な目が光っている。

照葉樹の森の村

糯福の町で雨になった。もちろん雨季なのだから雨が来て当然だ。だが、僕たちのワゴンでは山をのぼれない。
結団オンボロの四輪駆動のトラックを借りることにしたが、それも途中で坂をあがりきれなくなった。森のなかの山道を歩くことにした。「このあたりは森林保護区に指定されています。雲南でもわずかに残った照葉樹の森が鬱蒼と続く。
「拉怖族簡史」では、このあたりはまだ原始経済が若干残余している」とある。
およそ一時間ほど歩いて、ダイエー君のお母さんの村アレカ村に着く。雨は執拗に降って来る。森が深いからだ。
「んー。水田は一ムー(約一三a)、畑は去年は一三ムー(約五六a)に種を播いたよ。あとの五七ムーは何も作っていないよ」ダイエー君のお世さんの実家、ロルーさんの家だ。ロルーさんの畑作は、一三ムーが作付され五七ムーは休閑だとするとロルーさんは一年作って三年休閑していくというやりかたをとっていることになる。
「畑で作っているのはおかぼだよ、えっ?無肥料だね。今年はトウモロコシは人手がないからやらないね、息子のヨメが亡くなってしまってね」とロルーさんは言う。
雲南の地方の農家の面積が六〜七ムー(八〇a)前後に対して、ロルーさんは小田をいれておよそ七一ムーも農地を所有している。開発と人口圧がまだこの地域には及んでいないということだろう。この村では平均五〇〜七〇ムーの農地所有だという。
膨さんが、「この村からミャンマー国境まで三〇〜四〇??ぐらいですよ」と言う。
「わしらの畑は、わしらで作ったもんだ。でももう自由には森を畑にはできないよ。子供は七人、男が四人、女が三人、一番下の二一歳のせがれがわしらと一緒だ。ヨメが亡くなって小さい娘が一人残されてね、かわいそうなんだ」囲炉裏のわきで、放心したようにせがれが服を乾わかしている。畑仕事から帰ってきてずぶ濡れだ。
「現金収人?七百〜千元(約八千円〜一万二千円)ぐらいだね。ほとんど自給の暮らしだ。そうさな買うものいやあ、塩、薬、服ぐらいかな。収入?豚とか牛とか山の木とか売るんだ。いまはニワトリ二〇羽、水牛四頭しかいないよ、肉牛は売ってしまったばかりでな」。
膨さんが実に上手に昼食をつくり始めている。おそらく先泰時代、氏・羌族といった牧畜を主にしていた氏族が春城といわれるこの地に入り込んで以来、東から北から、雲南の地は開発につぐ開発だったろう。
ラフ族もまた羌族が移動してきたものともチベットから南下してきたともいわれている。
大理の西南、ミャンマーに近い瀾氾周辺にラフ族の人々が多く住んでいることを考えれば羌族(中国系)とチベット族との混合のなかで生まれたものだといえよう。
その他の諸族も次々と雲南に入り込み森を開発してきた。雲南の農耕も人口も適正規模を超えた、超えただけでなく、その生産が世界市場と密接につながり、競争原理の市場経済にとらえられている。
ダイエー君は、「雲南のラフ族はタイのラフ族よりも貧しいなあ」とつぶやいた。
わずかな、アレカ村のような辺境のみに森林がかろうじて残っている。
昆明を去る前夜、僕たちはラフ族科理のレストランで痛飲していた。
木くらげやら、山の山菜、カボチャの芽、豆の芽、うこぎの芽、ハチの子といった山の幸をいただきながら、僕は妙に暗然としていたのだった。
……<御茶ノ水女子大非常勤講師>

 

 

 

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