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四十年以上も板金を守り続けたナミさん。ダイエー君の父をよく覚えていたという。
森のなかに、黄色に塗られた教会が、まるでコロニアル様式の洋館の建物のおもむきで建っている。アーリーアメリカン風といってもいいのかもしれない。
九八年前にアメリカからやってきた神父が建てたものだという。
ヤパ・ロージョはこの教会で文字に出会い、世界の文明と出会った。ラフ族はなどの持つコスモロジーとは違う、西洋文明にいろどられたコスモロジーに。
ヤパ・ロージョは、糯福から自白村へゆく途中の村で妻を見つけた。
ダイエー君のお母さんだ。
ヤパ・ロージョの通った糯福の教会を拠点にして中国国民党のグループが組織されていたことが『拉祐族簡史』に出ている。一九三〇年代の半ば永文生という人が、中国政府のいうところの「宗教特務工作員」として、ラフ族の人々を組織し、やがて、例のインパール作成における国民党軍の後方を固めつつ、中国共産党の軍とも対峠していった。ラバ・ロージョも当然そのなかの指導的な軍人のひとりになっていた。
「私の父も母も中国語ができません。私は十七才で、共産党の軍隊に入って文字を覚えたんです」と膨さんはいう。
つまり、ヤパ・ロージョと膨さんは、それぞれの立場で文明に接近し、その接近の結果数奇なつながりを持っていった。
一九四九年、春、中国人民政府が樹立され、その年の冬には糯福では永文生ひきいる国民党軍が反乱をおこし鎮圧されている。
孟連の橋のたもとで膨さんがしみじみと語ってくれた。
この橋は「登政路」と言います。この橋をはさんで、国民党の軍と毛沢東の軍の決戦が行われたんです。激しい戦争でした」ラパ・ロージョもとらえられ昆明の牢獄につながれた。四年の禁固のあと、二年間毛沢東政府の少数民族の一教育を担当する役人としてヤパ・ロージョは働らいた。そのときの同僚が膨さんだった。
一九五三年以後、毛沢東政府は社会主義的政策をつよめ、農業の集団化をおしすすめていった。とくに一九五五年以後、農業集団化へスピードは猛烈化していった。
旧富農層や地主から土地をとりあげていく土地改革から農業集団化への一連の社会主義政策はヤパ・ロージョを迷わせた。旧国民党員や同調者に対してもことあるごとに改撃がつよまっ

 

 

 

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