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対馬・豆酘の赤米伝承と習俗……城田吉六

古代米の赤米が伝承され植えつづけられているのは、対馬豆酘の多久頭魂神社と、岡山県総社新本国司神社と、種子島茎永の宝満神社の三ヵ所だけである。
咲く花が違っているからその三ヵ所に渡来した道はそれぞれ違っていると思う。
神話伝説では豊玉姫が九州本土より持ってきたという起源の赤米となっているが、柳田国男のいう「海上の道」から茎永に伝来したという説をとりたい。
対馬豆酘の赤米と、総社の赤米とはよく似ていて、花が咲く時には真紅で実にきれいである。古代人が生きるあかしとして神が与えてくれたものと感ずるのである。
真紅の花を咲かせる赤米を神がもたらしたものと崇める習俗と共に農耕文化を現代まで伝承している例は豆殻だけであろう。
神話が語る赤米伝来の道というのは、古代人は朝鮮海峡のことを「サイの海」(「日本書紀」)という鉄文化の農耕機具の「スキ」即ち農耕文化開拓の鍬が入ってくる海と考え、稲作民の生活習の渡来と同一に考えられていたのであろう。
豆酘の赤米は、高皇産霊の神と結びついている。タカミムスヒノミコトは高天原における命令神で天孫ホノニニギを降臨させた神として記紀神話に語られている。ホノニニギとは赤米の精霊である稲魂であろうと本居宣長は「稲の穂が赤らみ稔りえる穂の丹饒君」といい、崇神天皇の時の祝詞の中に「遠御膳の長御膳の赤丹のほに聞きしめす五の穀物の始めて天の下の公民の作る物」とあるように赤米が主流であった。
対馬豆酘の赤米は、タカミムスヒの神との関係が深く、この神は北方系の神とされ、ツングース系のタカミムスヒ種族であり、大体五世紀末に朝鮮半島からサイの海を渡ってきた神である。
顯宗天皇三年(四八七)春二月阿閉臣事代が任那に使いした時、月の神にかかって壱岐の月読神「我が祖高皇産霊をあがめ、天地を創成し功多し民地を以て我が月の神に奉れ」とのたまい、また夏四月、日の神(対馬か船越に鎮座する阿麻氏留神社)に「磐余の田を以て我祖高皇産霊に献れ」とのたもう、事代奏して神の乞のまま田十四町を献る対馬下県直詞に侍ふとある。
五、六世紀の頃大陸との交流が盛んになり、農耕文化がサイの海を渡り対馬の西海岸に定着したと記紀神話が物語る。
ツングース系のタカミムスヒの赤米農耕文ソロバル化が定着したのが豆酘の「徐羅伐」の地であろう。「徐羅伐」は新羅の古代語の「ソラバル」であって、五世紀頃ソロバル人たちがこの地に移住して赤米を植えたと推定される。
この地に古くよりタカミムスヒを祀る高知魂神社(大用神様)がある。タカミムスヒの渡来足跡をたどると、壱岐の高御祖神社(今は諸吉権見)と東上して山城国羽東師の御産霊神社、大和国宇太理の高御魂神社、日原の高御魂神社など足跡をみることができる。
古代において天下国家の大行事においては伊勢、大和、住吉、紀伊に奉幣使をたてるしきたりであったが、、持統天皇六年(六九二)十二月に新羅の使者来て調をたてまつるのに宇太理神社に献上し高皇産霊の神を拝したのをみても新羅からの神であろう。
赤米は豆酘の徐羅伐に発生して佛教が盛んになると彼岸田となり八世紀頃となると観音を祀り政治を行うようになった。この観音を祀る政治の中心地が観音堂。豆酘寺となり赤米耕住地となり伝えられるようになった。
天武天皇自鳳二年生れの天道法師聖者がでるに及んで天道信仰が民俗の中にとけこむようになると、天道法師が住民を救うために赤米をもって来たとおきかえられて伝承されるようになった。天道信仰は室町時代最高となり、元禄二年(一六八九)「天道法師縁記」がでるに及んで彼岸田の赤米田は「寺田」と稱されるようになり今日まで続いている。
赤米の神を吊してある床の間の襖を開け

 

 

 

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