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漂う海跡湖のほとりに祀ってあるのは画白い。
?オセマチで栽培した赤米。茎が長い
?赤米の籾(左上)赤米の玄米(右上)と普通の精米した白米

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その期すなわち宝満の地には昔竜神が現れ、神社の上空を飛んだという伝えもある。
赤米の神稲はこのような伝承に包まれたナゾの多いコメである。
先述のホイトウや森山信仰は海神伝承や舟田伝承などと共に赤米を取り巻く南方要素の古い伝承群であり、宝満信仰以前からあったものと思われる。視点をもう少しひろげると、このような要素は他にも見出せる。例えば茎永の富瀬川で行われているボラとりの戸板浮かしの漁法。これは大隅の川口や薩摩の川口でも行われている。国分直一先生から聞いた話によると、東南アジアでも見られると言う。
漁具の一つで、ハート型の竹製ヒビは、南九州だけにあって南ではマレーシアやインドネシアの海辺に多い。また、肩切りテゴと言うビクは、南九州から南島にかけて見られるが、川野和昭氏の話ではラオスにもあると言う。また、タイ、フィリピン、中国、台湾にも見られる。
栽培食物では田芋と里芋のことがある。山芋は水田に作るタロイモで東南アジアから南西諸島、南九州へと分布している。里芋はこのルートをもっと北の東北までかけ上っている。この二つは海上の道の南島ルートをへて日本へ伝ったものであろう。田芋は韓国では栽培ができないし、里芋も少い。
森山信仰と御岳信仰のような南北二系統的な対比は、丸口笊(南方的、古層的、縄文的)と片口笊(北方的、中・新層的、弥生的)や馬具の一つのオモゲーと小形馬(面繋、全国的、古層的)とクツワと中・大形馬(轡本土的。中・上層的)、男潜水(全国的、古層的)と女潜水(西日本的、中・新層的)など枚挙にいとまがない。
これらの対比も赤米を取り巻くフォークロアであり、それらはどこかでつながっていることも考えられるのである。赤米だけが単独で日本に渡って来たのではなく、誰かがいくつかの文化要素の複合体としてもたらしたに違いない。
宝病神社の赤米と神事は、ホイトウや森山信仰、その他、南方系の要素と深く結びながら、お田植祭というヤマト中央的枠組の中に伝承されている民間伝承である。
赤米神事を含む種子島宝満神社信仰の成立については、まだ宝満と言わなかった段階と宝満と言った段階の二段階があったものと考える。後者についてはすでに述べたので、ここでは前者について述べよう。
それは、お田の森と赤米の祭の問題である。その成立時期はいつか、難しい問題である。それはまた、赤米伝播の時期の問題である。氏子たちは皆、いつの昔からか分らない、大昔から赤米を栽培し、祭をつづけて来たと言う。その伝播時期は弥生時代か、もっと古い縄文時代後晩期か。この答は今後、諸方面から検討して明らかにされなければならない。
また、そのルートはどこか。朝鮮経由か、中国大陸直伝か、海上の道の南島伝いか。これも難しい問題であるが、赤米を取り巻くいくつかの伝承は、先述のように南方系文化を鮮明に示していて、海上の道の南島ルートを強力に支持しているのである。
……<鹿児島純心女子大学教授>

 

 

 

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