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踏み鋤がよく用いられたと言われる(前記者書)。
以上によってホイトウは南西諸島全域から九州各地、中国地方まで、西南の日本に広くひろがる習俗であることが分る。ホイトウはまた、高谷好一「『南島』の農業基盤」(渡辺忠世・生田滋編「南島の稲作文化−与那国島を中心に−」(法政大学出版局)によると、東南アジアからセイロン、マダカスカルヘもひろがっていると言う。東北でも南部藩など、馬の多い地ではホイトウがあったのではないか。
ともかく日本では南から北へひろがるホイトウ習俗に対し、その上に、大陸からせり出して来るようにして中央部に筆耕習俗がひろがったのである。

赤米

赤米については渡部先生が詳しく調べられ、宝満の赤米がインドネシアにつながるジャバニカであると言われた(渡部忠世著「稲の大地」小学館)が、筆者もずいぶん前から独自に調べていたのでその要点を記すと、種子島の赤米は五種類であり、そのうち田に栽培するものが宝満のものを含めて三種類、畑に栽培するものが二種類あった。トウボシと呼ばれるのは無芒で、丈は短く、穂も短いのに対し、アカゴメは有芒で丈が長く、穂も長いものであった。これらの赤米は田にも畑にも栽培した。宝満の赤米は他に較べて色がややうす赤で、味は独特の香ばしさがある。そして粳である。ひこばえをヒツツと言い、近年まで収穫していて、書紀の「粳稲常豊。一俎両収」の多弥国の記事を思い出さずにはおかない。
宝満神社では赤米をオイネと言って門外不出であり、オセマチの管理から赤米収穫は社人が担当し、お田植祭の夕方のマブリ(赤米のマブリで、その魂の意味か)の儀礼のとき、皆に赤米のニギリメシを食べさせる。赤いニギリで、風味があっておいしい。マブリは旧暦九月九日の祭の翌日にも行ない、そのときも赤米のニギリが出る。このようにオセマチの赤米は氏子代表たちがまぶりの場で赤米の魂をいただき、かつその霊力で守ってもらうというセレモニー実施のために栽培されつづけて来たのである。
なお、舟田はやや細長い三角田である。全国各地の神田がそうであるように三角田は聖なる田であり、三角は鋸歯文であって渦巻文と共に古い日本文化に見られ、トカラや南九州などでは神社や葬送具、競舟などに今も見ることができる。宝満では牟田は多いにもかかわらず、天水田を選んで聖田にしたのは、先祖伝来の大切な赤米栽培の確認とやはり先祖伝来の人間による清らかな足耕の確認をするためであったようだ。

文化複合

赤米と神事について今まで述べた中にもいくつかの文化複合があったが、赤米の祭そのものが文化複合の産物である。南方系かと思われる要素が多いが、田植歌などヤマト中央からの伝播にほかならない。こういう場合、いつの時点をもってするか問題ではあるが、ごく大ざっぱに述べると、古層文化は南方的で中・土層文化は北方または中央南下的であると言える。
種子島では北端の浦田神社(祭神は玉依姫の夫のウガヤフキアヘズノ命)と南端の宝満神社は一対になっていて、その縁起書に、浦田神社で栽培の白米が絶えたときは宝満の赤米を持って来て植えると、赤は白になって捻ると書いてある。赤米が白米に変るのは遺伝手のせいかどうか、筆者は分からないが、赤と白のコントラストに加えて、浦田の祭神は玉依姫の夫のウガヤフキアヘズノ命であり、夫と妻、男と女の対応となる。それに加えて北と南である。浦田神社のお田植祭は今はないが、境内にオタネマキの石というのがある。
豊玉姫の子ウガヤフキアヘズノ命は海神の母と山幸彦の子であり、ハーフであるが、玉依姫は純粋の海神である。それを南端の神秘

 

 

 

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