日本財団 図書館


 

の永く深い縁があるのだろう。この南につらなる森山信仰のラインに対して、中国、韓国、日本へとつらなる山岳信仰のラインが列島の北寄りに流れている。
ところで茎永の雪の子ガローは宝満様の侍女の雪の子姫を祭ると言い、宝満神の祭祀組織がかつて女人加盟のものであったことを示唆している。

お田植祭

お田の森の項でホイドンが祭ったのち、赤米の苗はホイドンから総代の手をへて青年団長に渡され、オセマチでのお田植となる。赤米のお田植には『閑吟集』の一節もまじる中世ふうの田植歌がのどかに歌われる。この田植歌は歌詞の一部が大隅にも残ることから、上方より南下し大隅をへて種子島に伝わったものと思われる。種子島以南にはこの種の歌はない。
お田植は昔は夜、社人が一人で行ったと社人文書にあるが、大隅国分八幡宮でもそうしたらしく、田人組の田歌は真昼に提灯をさげて歌う。
お田植がすむと、お田の森に東南の方角から舳をつけた格好の舟田と称する小さな天水田に、氏子の一人がバケツで溝の水を汲み入れて、社人夫婦によるお田植舞が行われる。
赤米の苗を両手に分け持って舞う二人の舞は特に処作はなく、ただお田植歌に合わせて両手を挙げ動かし、両社交互に田を踏むといった「赤米の舞」である。
夫婦は正装して舞うが、泥まみれになってしまう。それでも楽しそうに両手足を動かして舞う。
種子島では明治四十年代まで、牛馬による足耕(踏み耕)が行われ、それを一般にホイトウと言った。

025-1.gif

?宝満神社拝殿
ホイトウは、牛馬に田を踏ませて泥をくずして耕させるときの掛け声にちなむものである。詳しくは拙著「種子島の民俗?」(政大字出版)を参照されたい。渡部忠世先生がホイトウを問題にされているが、この田耕法は沖縄や奄美、トカラでもやっていたことを聞き、さらに大隅の佐多でも明治までやっていたことを聞いた。このような事実から舟田での社人夫婦の舞は足耕を表現する赤米の舞だと言えよう。
人による足耕は薩摩半島日置八幡のお田植祭や与那国島の人升田の伝承にも残っている。人と年馬による足掛は宮崎県の田代では今もお田植祭に行い、牛馬の足掛の証拠は『成形図説巻四』の絵や(田中勉氏教示)、『日本農業全書33』(農業日用集)の文など(小島摩文氏教示)にもあって、九州各地で行われていた。市川健夫氏によると(『日本の馬と午』東京書籍)、広島県東城町塩原の「大山供養田植」においては、「牛による代かきは馬耙などの農具を一切使わず、古代にのっとり、「鶴の巣ごもり」「鴬の谷渡り」「屏風返し」などの様式で進められる」と言う。これは牛ホイトウだと思うが、前記拙著に図示したどの様式と共通するのであろうか。
そう言えば、南九州の春祭りの打植祭(田遊)では馬鍬は使うが犂はどこの場合も使わないのは、犂以前の耕耘すなわち牛の足耕を意味しているようだ。
市川氏は、日本での犂耕は近畿から北九州にかけての先進地では普及したが、東日本では加賀・甲斐などの一部以外は犂耕はあまりなされなかったと言い、東日本では備中鍬や

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION