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その話を八重山で話したら、八重山で今でもダハとがって言うんですって。だから民間レベルでは南から北へ、北から南への交流があっただろうとは思うんです。
渡部……そうですね。最近考古学で青森の三内丸山遺跡が非常に古くから北アジアと交流があったと発表していますが、アジアというか、南アジアのほうがもっと交流しやすい空間だったんじゃないですか。
谷川……船で行き来できますからね。
照葉樹林というといつも不思議に思うことがあります、私の生まれは熊本県の南部の水俣ですから、椎とか樫とか椿とかをよく見かけました。密生していると、家なんか建てられる隙間はないんですよね。西表島も全島椎山で猪は生息できるけれども、人間が入るような余地がありませんよね。照葉樹林文化と言った場合に、あれはどう考えたらいいですか。
渡部……中尾さんやら上山さんたちは、照葉樹林文化の源流みたいな根っこの部分を雲南とか四川のあたりで考えていますね。昆明あたりの照葉樹林は疎林です。モンスーンの非常に雨の多い九州であるとか沖縄の照葉樹とはまた違うのかもしれません。そう考えないと、人間の住む空間ではないですから。
谷川……西表を見ても、私の郷里なんかでもね、とても住むような空間ではないから、その点、どうしてもイメージが描きにくいですね。

農民のニヒリズム

谷川……話を現代のほうに移していきたいのですが、渡部さんは現代の農業が今非常に混迷しているということを書いていますが、ちょうど一九六〇年代の半ば頃、高度成長の頃からある意味では民俗学は大衆化しました。みんなに受け入れられるようになったのです。柳田さんが亡くなられて五年か十年たった頃から民俗学の大衆化は進んで、今までになかなか評価されなかったのが評価されるようになったのです。それと同時に、民俗学の対象である農村とか漁村とか山村が急速に崩落しはじめたんですね。ですから、私は民俗学の普及は非常に慶賀すべきだとは思いますが、しかしその実態が失われていくということで、民俗学はもう落ち目の学問ではないかということがあちこちで言われ始めたのです。それとちょうど農業の問題も軌を一にして『農は万年、亀のごとし』、その中で一九六一年に施行された農業基本法のことを書いておられますね。ですから、あのあたりの状況と申しますか、雰囲気というのは戦後すぐから高度成長への経済第一主義への考え方がありますね。
渡部……農基法の目的とするところは、農水省の作文ですからいろんなことを書いていますが、一番は農村から工業に人がほしいと、見え見えの文章ですね。農村の労働力を町へ吸引したいと、そして、安い労働者を工業生産に従事させたいということが、かなり大きなウエイトを占めた法律だと思いますね。そういう産業界の要請と政府がドッキングしたのだろうと思います。
谷川……減反政策は七〇年から始まっていますが、農民のニヒリズムのようなものがすでに明治時代からあったと思いますね。その一つには、地主と小作の隷従関係もあります
が、一方では自分の作った田んぼのお米が税金として取られていくということがある。もう一つは農村の耕地面積が拡大できない枠の中で起こる現象です。東北で夜中に田んぼを広げる。少しずつ自分の家の田んぼの畦をとなりの田のほうに進めていく。それを隣のほうでも警戒して、隣の百姓がそれをするのを防ぐために、蓑笠つけて自分の田の畦に寝るんです。そういうふうに耕地面積が限られている時に、自分の幸せは他人の不幸であるし、他人の幸福は自分の不幸せだという幸福を共有できない社会が共同体の中にあったと思うんですね。そういうことから、自分自身を充実できないで、人を絶えず伺っているような関係がある。戦後のニヒリズムというのは、減反政策にあるのではないかと思っています。弥生時代以

 

 

 

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