すか、執着というのは、土地の魂のようなものとも稲の塊ともつながります。いろんな問題は昔はあったはずなのに、だんだんとそれが希薄になってきています。
沖縄在来種とブル
谷川……今は在来種は八重山にないんですか。
渡部……八重山にはもう全然ないです。台中六五号もありません。台中六五号を説明します。沖縄の在来種はブルだけではないんですね。沖縄で在来と言われて、江戸時代からずっと作っていた稲は三種類ありまして、南から来たブルと、中国から来たと思われるインディカと、それからおそらく薩摩が持ち込んだと思われるジャポニカと、この三種類の在来種があるんです。たとえば羽根地黒(ハネシクロ)という有名な在来種は、明らかにジャポニカなんです。ですから、場所に応じて、ブルも作るしインディカも作る。ジャポニカもかつて大正時代まで沖縄は作ったわけです。その後に大正の終わりから昭和の初めにかけて、蓬莱米が入ってくるわけです。蓬莱米の代表が台中六五号です。これも昭和の二十五年ぐらいまでありましたけれども、もう昭和三十年代には残らなかったですね。もう全部ありません。
谷川……沖縄には、台中六五号が普及したということなんですが、本土には台中六五号は入らなかったんですか。
渡部……入ってないです。
谷川……それはどういうわけですか。
渡部……もっとよくできる米が本土にはあったのだと思いますね。台中六五号は種子島にはほとんど来なかったでしょう。奄美までです。
谷川……民俗学者で農作、稲作儀礼の研究をしている人もいますが、在来種と台中六五号のような改良種との関係を知らないんです。例えば苗代について、種籾から苗代田を作るまでの期間などがわからない、知らないで書くものだから、初歩的な押さえ方を民俗学は全然やっていないんです。伊江島の田名で田んぼで行う田折目(ターウイミ)という有名なお祭りがあるのです。籾を蒔いてから行う豊作を祈る田の祭りです。そこの農家の人から取材したら、在来種は背丈が長くて刈り取りの時、体や顔を傷つけるから大変だったらしいですね。それと苗代田に種籾を蒔いて苗代を育てる期間が長いというんです。
渡部……その在来種は、ジャポニカではないですね。いちばんやっぱり可能性があるのは、ブルですね。芒が非常に長くて、草丈が高くて、おそらく茎も太いのだと思います。苗代期間が長いというのもそうですね。だいたい六十日。長いのになると、三か月にも及ぶのもあります。
谷川……柳田さんなんか、百何日というのがあると書いています。
渡部……ひとつ補足しなければいけないと思っていましたのは、踏み耕にしろ儀礼にしろ、一方的に南から日本へというのばかりではなくて、私が今考えているのは、もしかすると同時に日本から南に行っていることもありうるのではないかと思います。東南アジアや東アジアの海域を含めて、私たちの理解をはるかに越えるほど古くからいろんな交流があったのじゃないでしょうか。例えばマルク諸島にアンボン島ってありますね、そこのある半漁平農の村を調査に行った時に、びっくりしたことがあります。沖縄の人と、特に糸満あたりの人とまったく同じような生活と風俗、顔かたちをしているんです。民俗学には暗いですから、正確なことは申せませんが、糸満の女の人は膝小僧ぐらいの短い着物を着て、腰巻きを着けて、頭をちょっと高く結っている。あれとまったく同じような着物を着て髪を結っている村がありました。村の人に聞いて見たら、先祖は北から来たという言い伝えを持っているのだと言っていました。そういうふうに聞くと、もしかすると南シナ海あたりはわが庭の如くにして古代の人たちが行き来した空間かもしれませんね。ですから、踏み耕なりブルを持って渡ってきたことは特
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