からもう一つは、稲に対する精神的な拠り所みたいなものです。大雑把な言い方をしますが、稲を何よりも自分たちの食い物として大事にするという稲に寄り掛かる気持ちの濃淡、その濃さが東南アジアと日本は共通すると思うんです。それからしめ縄の話をしましたが、いろんな儀礼を含めた稲作文化の要素だと思うのです。
谷川……稲魂信仰は、稲が稲魂という神になるので、信仰的なものと強く結びついている。
渡部……稲魂信仰は中国では、あるのでしようか。
谷川……『東アジアの古代文化』(大和書店)という雑誌で中国から日本に来ている曾紅さんという研究者が、ミャンマーやタイでアカ族と呼ばれている雲南ハニ族の、苗開きの習俗を日本と比較して書いています。稲魂信仰があるんですね。(本文36頁参照)
渡部……アカ族はビルマやタイに多いのではないですか。むしろアカは東南アジアの人たちと考えていいのではないでしょうか。
谷川……そうすると、稲魂信仰があって当然だということになりますね。 渡部……最近は私やら中尾さんが、言った「中国の山中に稲が起源した」ということではなくて、揚子江流域にたくさんの炭化した稲が出てきましたから稲の起源はそこかもしれません。
谷川……今おっしゃったように重要なメルクマールがないんですね。
渡部……そうです。植物学的な起源と、農耕文化としての稲作の発生は別に考えてもおかしくない話です。植物的な起源はもしかすると揚子江の流域がもしれませんが、これからの課題でしょう。そういう意味では、稲の研究を考古学者と農学者だけがやってはいけないということを私はしょっちゅう言っているんです。ぜひ民俗学、それから文化人類学の先生などにも参加してもらわないと、アジアの稲の全体はわからないなという気はしますね。
谷川……私も宇野圓空の『マレイシアに於ける稲光儀礼』を読んで、日本の稲作文化の濃密な原型のようなものがマレイシアにあるのかと思って、本当に感嘆しましたよ。米を焼いてばら蒔く焼き米神事もあるんです。また、御息喰いの神事とか、みんな向こうにあるんですよ。そうすると、どう孝えても、ただ品種だけが伝わった、伝播したのではなくて、それを持ってきた人が技術と信仰を携えてきたのではないかという気がしてしょうがないんです。
民俗字者ももっとそういう視点を持たなければいけないはずなんですが、どういうわけか、そういうものに興味を抱く人が少ないですね。
稲作一元論への批判
谷川……現代的な話に移るんですが、日本が稲作一元論、稲作文化一元論つまり単一民族、単一国家に付する批判が出ましたよね。そういうところから、もう少し雑穀とか焼畑とかを考えなくてはいけないという発想が出てきた、、そのせいか、稲に対する木質的な関心がどこか薄れた気配があるのではないかと考えております。
渡部……農学打の間でもそいう気配です。
私なんかがやっぱり少数派になりましたね。
谷川……そうですか。本当はいちばんオーソドックスな立場でなければならない人が少数派ですか。
渡部……もっと稲は研究しないといけないことがたくさんあるのに、なぜこんなに早く見限るのかと思いますね。
谷川……文化論の視点から柳田民俗字が稲にあまり偏重しすぎていた、稲中心だったという反動ももちろんあるかもしれません。
戦時中は、米不足の時代でしたからわれわれは銀メシと言ってね、おかずがいらないぐらいにダントツにうまかった。日本人がなぜ米に執着したかというと、やはり旨いからです。米の味を知ったらもう他のもの食えませんよね。
渡部……もう少し補足しますと、旨いのと
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